衆議院議長、自民党総裁を歴任した河野洋平氏が6月8日、89歳で死去したと産経新聞が報じた。長男は河野太郎氏。河野氏は、日本社会党の村山富市氏が率いる連立政権が発足した1994年にも副総理兼外相を務めた。その後、小渕恵三、森喜朗両首相の下で外相を務め、自民党総裁から初めて首相を務めた。外務大臣在任中、河野氏は中東地域の数カ国を訪問し、湾岸諸国やその他のアラブ諸国との政治的・経済的関係の緊密化を提唱するとともに、中東和平努力や地域開発イニシアティブへの日本の貢献を支持した。河野氏は、アラブ世界、特に湾岸諸国と日本の関係を強化する上で重要な役割を果たした。2001年1月には、カタール、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアを歴訪し、同地域の首脳と会談し、「河野イニシアティブ」として知られるようになった、エネルギー協力にとどまらない日本・湾岸関係の拡大を目指す枠組みを推進した。このイニシアティブは、日本とイスラム諸国との対話の拡大、水資源開発に関する協力、日本と湾岸諸国とのより広範な政治協議などを求めた。河野氏は外遊中、日本とイスラムの相互理解を深めることの重要性を強調し、関係を原油貿易だけに限定すべきではないと主張した。河野氏の提案は湾岸諸国の指導者たちに歓迎され、今回の歴訪は、現在日本とGCC諸国との関係を特徴づける、より包括的な戦略的パートナーシップを確立するための初期の取り組みとして広く受け止められている。また、外相在任中は中東和平プロセスにも強い関心を持ち続けた。2000年にパレスチナの第2次インティファーダが勃発し、緊張が高まっていた時期には、すべての当事者に自制を求め、対話と交渉が永続的な解決に向けた唯一の道であることを強調した。河野氏は、パレスチナ自治政府に対する日本の援助継続を支持し、パレスチナ人の自決に対する日本の支持を再確認した。日本は中東における戦略的利益と、中東からのエネルギー輸入への依存とのバランスを図るため、河野氏はイスラエルとパレスチナ間の安定、経済発展、信頼醸成策を中心とした外交的アプローチを提唱した。彼の努力は、交渉による2国家解決を支持し、地域の平和と発展に建設的な役割を果たすという日本の長年の方針を反映したものであった。神奈川県平塚市に生まれ、早稲田大学政治経済学部を卒業。民間企業を経て、1967年の衆議院議員総選挙で初当選を果たす。1976年、ロッキード事件で揺れる中、政治資金疑惑で田中角栄元首相を批判し、自民党を離党。その後、新自由クラブを共同設立し、党首を務めた。1983年に新自由クラブが自民党と連立を組んだ後、河野氏は科学技術庁長官として初めて連立内閣に入閣した。1986年に自民党に復党し、1992年に宮沢喜一内閣の官房長官に就任。産経新聞は、1993年8月、河野氏が官房長官として慰安婦に関する「河野談話」を発表したと報じた。その記事によれば、日本軍が慰安婦を強制連行したことを証明する証拠がないにもかかわらず、河野氏は記者会見で、慰安婦の募集プロセスには強制性があったと述べた。その年の暮れ、自民党が結党以来初めて政権を失った後、河野氏は第16代総裁に就任した。選挙制度改革について細川護熙首相(当時)と合意し、現在の衆参混合選挙制度導入への道を開いた。2003年に第71代衆議院議長に就任し、2009年に政界を引退するまで2,029日間在任した。