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自民党総裁や衆院議長を務めた河野洋平さんが死去しました。89歳でした。 河野さんが政界を引退した2009年、朝日新聞が掲載した河野さんのインタビュー記事(計5回)をまとめて配信します。 ◇ 衆院議長として2029日という記録をつくった河野洋平氏(72)が、衆院解散とともに政界から引退した。政治の激動を映すように43年近くに及んだ波乱の歩み。いまどんな感慨をもち、何を伝えたいか、5回にわたり語ってもらった。(聞き手は本社コラムニスト・若宮啓文)「3分の2」でつまずいた ――河野議長の時代は郵政解散で自民党が圧勝し、参院選では「ねじれ国会」の出現。大変な時期でした。 冷戦後、力による政治、強者の経済へと国際社会が再び右旋回したところに小泉首相が出てきて、独特な手法で国民を引きつけた。郵政解散で大勝し、自公両党が3分の2議席を取ったわけだが、それからがむしろ非常に苦難の国会運営でしたね。振り子が振れて参院選で負けたわけですが、衆院で絶対的な力を持っていたから、参院で否決されても仕方ない、時間はかかっても衆院に戻せば原案通り可決できると思い、強気になってしまった。 ――野党はそれなら妥協なんかするな、と。 そうです。だから衆参の調整をする両院協議会も不毛な議論になった。もし衆院で半数を少し上回る程度なら、与党は譲るべきものは譲り、野党も取るものは取って、合意の政治になりえた。3分の2をとったのがかえってつまずきの始まりでした。 ――ガソリン税の暫定税率で対立したときは衆参両院の議長調停もありましたが、すぐほごにされました。 残念でしたね。参院選で自公が負けたとき安倍首相は責任をとらなかったが、本当はあそこが政治の決定的な転換点だった。参院選の結果は6年間続くから大変なのです。ルール上3分の2が使えない国会同意人事は動かず、ひどいことになると思ったが、やはり日銀総裁人事で否決の連続でした。 ――そもそも小泉首相の郵政解散は、法案が参院で否決されたため衆院を解散するという強引な策でした。 問題でしたね。あれを衆院議長がだまって受け入れたのはいかがかと批判もありましたが、首相の解散権は阻止できません。 振り返ると、自民党政治を主導してきたのは田中角栄―竹下登元首相の流れと、岸信介―福田赳夫元首相の流れをくむ政治がありました。前者は泥をかぶることをいとわず数を集め、野党をなだめ、財界の意見も聞いて合意をつくるという究極の自民党政治だが、カネにまつわる話が絶えず墓穴を掘ってしまった。それで最近隆盛を極めたのが岸さんの系統ですが、やや上から見下ろす政治で、旗を掲げて走る。小泉さんがそうだったし、安倍さんも「憲法改正を私の時代に」と走った。 ――小泉さんは田中政治を壊したが、調整型の政治も壊したということですか。 乱暴なやり方だったからねえ。勝負としてはうまくやりましたが。 ――その後は1年ごとにくるくる首相交代でした。 ポスト佐藤やポスト中曽根のように長期政権が代わるときは「三角大福中」とか「安竹宮」とか、自他共に認める後継候補がいたものだが、ポスト小泉にはそういう人が育っていなかった。 ――それで、安倍さんに。 いかにも早すぎましたね。福田さんと順序が逆ならまだよかったかも知れない。 ――河野さんは33年前に新自由クラブをつくり、「自民党は時代的役割を果たし終えた」と宣言しました。いま本当にそうなった感が。 あれは自民党の永久政権だと思われていたころだから、大きなビルから飛び降りる心境。金権腐敗が極まり、これではダメだと思い詰めたんです。でも力及ばずでした。 当時は社会党に政権を渡すわけにもいかなかったが、いまは民主党があるのが大きな違い。ただ、もともと自民党田中派系の人たちが軸の党だけに、おカネの話がよく出てくるのが気になります。小沢代表の辞任もそうだったし、鳩山代表にも不明朗な問題が指摘されている。 ――政権交代はあった方が民主主義として健全では。 それは分かる。だけど代わりすぎにも問題がある。中国の人と話すと、オバマの米国は8年間相手にできそうだからがっちり組んでいけるが、日本は安心できる相手が見つからず心配だという。まあ、首相がくるくる代わってきたせいもあるでしょうが。 ――これだけ首相が生まれたのに河野さんは……。 政治には予期しないこともよく起こるし、それは明らかに巡り合わせだと思います。 ――解散前に改正臓器移植法が成立しました。生体肝移植を受けた身としては。 本当にうれしい。僕は入院中に移植を待つ小さな子どもや親をたくさん見て、つくづく何とかしなければと思っていましたから。 ――後輩議員への注文を。 反省することの大切さと謙虚さですね。先輩にも有権者にも相手の党にも、もっと謙虚であってほしい。小選挙区、忸怩たる思い ――最近は総裁選の度に自民党内で雪崩現象が起きるのが不思議です。 安倍晋三さんと福田康夫さんは同じ派閥でも政治手法や思想が全く違うのに、多数になれば勝てると考えて、同じ人たちが平気でかつぎましたからね。かつて先輩から「自民党で大事なことは義理と人情とやせ我慢だ」と言われたものだが、いまはそれが全くなくなった。 ――やせ我慢とは、冷や飯を食う覚悟ですか。 そう。いまはあっちを追っかけ、こっちを追っかけですから。いつも日の当たる場所にいたい人が増えました。 ――派閥が弱体化したせいもあるでしょ。派閥がばっこした時代は困りました。 派閥とはもともとリーダーの思想や人間に魅力を感じ、磁石にクギが集まるようにできていたが、いまは派閥のリーダーにそんな魅力がない。かつての派閥抗争には行きすぎがあったが、権力を牽制(けんせい)し合い、疑似的な政権交代をする機能もあったんです。 ――小選挙区制導入が派閥の力をそぎました。94年の細川首相と河野自民党総裁の合意で決めたことです。 だから非常に責任を感じています。僕も本来は小選挙区制に慎重だった。党内も賛否が大きく割れ、中選挙区の擁護者は守旧派とレッテルを張られた。細川内閣は政治生命をかけていたし、マスコミや経済団体もうるさかった。 僕は総裁だから政治全体の収まりも考えなくちゃいけない。いろんな経緯があった末、とうとう細川さんが自民党の対案をほぼ丸のみしたんです。これはもう、手を打つ以外になかった。 ――小選挙区になってあまりカネがかからなくなったと言われます。良かった面もあるのでは。 少しはなければ困るが、それだけじゃないから忸怩(じくじ)たる思いなんです。政治とカネの関係は本当は制度問題じゃない。田中角栄、金丸信タイプの政治がつぶれれば、中選挙区でも変化があったろうし、逆にもし金丸さんみたいな人が権力をもっていたら、小選挙区でも変わりがなかった可能性がある。 小泉さんはあれだけ小選挙区制に反対したのに、首相になるや小選挙区のお陰で権力を全部握った。選挙で公認するとき、党の政策に必ず従うなんて一札を取ったのは初めてです。 ――金権型の人が小選挙区制で権力をもっていたら。 それは大変ですよ。利益誘導で政策はめちゃくちゃになったかも……。 ――やっぱり中選挙区の方がよかった、と。 それほど簡単じゃないからつらい。これは将来の課題ですね。 ――河野さん、それに息子の太郎さんも「世襲」が問われる身ですが。 ちょっと複雑な心境です。世襲がいいとは言わないが、新自由クラブをつくったときに、あんな自殺行為を平気でやるのは苦労知らずの二世たちだからだと言われたこともありました。しがらみに縛られない純粋さはある。 ――それにしても世襲が多すぎませんか。 子どもの頃から政治家の所作や生き方を見て育つところは悪くないと思います。最近少し多いとは思うが、世襲だけを目の敵にするのはどうだろう。官僚や地方議員の出身者と同じように世襲の人が交ざっていい。ダメな候補なら有権者が落とすでしょう。 太郎は小選挙区制に変わったときに隣の選挙区で立ったが、待てというのに自分でどんどんと……親の言うことを聞かないんです。候補者の公募制がいいという人もいるけれど、論文審査とか面接試験をやるのはだいたい県連のボス。ダメですよ、それじゃ。個人献金、気遣いに苦労 ――30年以上も前ですが、西岡武夫さん(現民主党)らと自民党を離れたのはロッキード事件がきっかけでした。金権体質が極まれり、と。 僕は官僚政治に反対で、72年の総裁選では田中角栄さんに票を入れたんです。でも、あの人の金銭感覚はそれまでの派閥リーダーとはけたが違った。若かったし、強力な長期政権を目指していたから余計そうだったんでしょう。 ――自民党に復党した後もリクルート事件で竹下内閣が倒れ、河野さんが官房長官をした宮沢内閣は金丸スキャンダルを機に政権が幕を引いて野党に。つくづく金権政治に苦しみましたね。 そうですね、本当に。離党して新自由クラブをつくった時、「浄財政治」を掲げて企業献金を自ら制限し、個人献金を集めようとしたんです。最初は街頭演説で募金をすると1回で数百万円集まったこともある。1万円札がどんどん入ってびっくり……。 だけど、ある財界人から「最初だけさ」と言われて、悔しかったが本当にそうでした。それで党が主催する資金集めのパーティーを始めたりもしたけれど、新自クは10年で解散でした。 ――大きな借金もつくりました。個人献金は日本に根付きにくいと言われますが、実感ですか。 あのころは求められる見返りが大変でしたよ。例えば個人から3万円献金されたとします。お礼を言うだけじゃ終わらない。あとあと親類の葬式に花を出して欲しい、娘が結婚するから祝電を出して欲しい。果てはスピード違反を何とかならないか、と。 企業の場合、5千万とか1億円なら別として、100万円ぐらいで見返りを求めることはほとんどない。それに比べて個人の3万円に対する労力、気遣いは大変。事務所の仕事量を考えても本当にできるのか、あるいはきっぱり断れるのか。いま若い議員が個人献金に熱心なのはいいけれど、議員と有権者の双方がそういう旧弊を断ち切れるか、覚悟が問われます。 ――いまは国から政党助成金も入るから、ずいぶん楽でしょう。 そう。あれは僕が自民党総裁だったときに細川首相との会談で決めたから責任があるんです。税金を入れる以上、企業献金はスパッとやめなければいけなかったんだが、最大テーマの小選挙区制導入に気を取られて向こう5年は認めるとされ、その後あいまいになってしまった。もう15年もたつんだから、やめないと詐欺的ですね。 あのころ土井たか子衆院議長からも廃止だと強く言われましたよ。一方で後藤田正晴さんは、政党はあまり細かいルールで縛っちゃいかん、そういう法律をつくると国税とか検察が入ってきて、政党政治が瓦解(がかい)するから絶対やるべきでない、と心配していましたけど。 ――小沢一郎さんの一件もあり、民主党も企業献金を全廃すべしと言い出しました。本当にできますか。 小沢さんがそれを言い出したところに意味がある。政治家がカネをかけないことに徹すればいいんです。政治はカネがかかるとか、民主主義のコストだとか、新聞やテレビの人が訳知り顔に言ってはだめ。きちんと決めて、その中でだれが一番頑張るかを競わないと。 僕が新人議員だったころはビラだってガリ版刷りで、上質紙にカラー印刷なんかじゃない。みんなそうだから条件は同じ。だから上限を決め、この中で工夫しなさいというルールにしないと。批判もせずに資金集めの能力で政治家を評価するベテラン記者なんかは、何を考えているのだと言いたいね。「村山談話」はよかったが ――社会党を担いだ村山政権はハト派の河野総裁ならではですが、奇策でした。 自民党も政権を取り戻そうと必死でしたからね。非自民8党派による細川政権のあと羽田政権では社会党が抜け、少数与党の不安定な連立に。そこで、政治の混乱は第1党と第2党で解決するしかないと呼びかけたら、村山さんが分かってくれたのです。 ――いま振り返って歴史的な意味は何だったと。 僕には二つの思いがあります。一つは村山・河野・武村(さきがけ代表)の3者が手を握り、戦後50年の村山首相談話を作ったこと。戦争への反省、アジアへの謝罪を明確にしたのは日本にも国際社会にとっても極めて重要で、村山政権でなければできなかった。もう一つは、あの政権を作ったことで平和主義を掲げた社会党を結局つぶしてしまったこと。政治のバランスを崩して全体の右傾化を招いたと悔いが残ります。 ――社民党として続きましたが、今はミニ政党です。 そもそも社会党は細川政権に参加して小選挙区制を推進したのだから、自分の首を絞めてもいたんです。 ――アジア外交の基盤になった村山談話は、従軍慰安婦をめぐる宮沢内閣の河野官房長官談話と同様、右から「国賊もの」と攻撃されます。 視野の狭い考えですね。あれだけの戦争をして内外の膨大な人命を奪い、植民地支配で屈辱を与えたのだから、けじめをつけてアジアの安心と信頼を得るのは日本の国益にかなうのに……。 ――議長時代は歴代首相を集め、小泉首相の靖国参拝に物申したことも。 小泉政権で議長にという要請があったとき、右傾化する政治の中で大事な場面がくるかもしれないし、議長だと政治的に不自由だから断ろうと思ったんです。だけど相談した宮沢喜一さんがぜひ受けなさい、と。それで受けたのですが、何かの時は、という気持ちはもっていました。 ――靖国でその時が。 日中関係が日に日に悪化して05年春に中国各地で激しいデモ。欧米の新聞には、日本が靖国神社を重視してサンフランシスコ講和条約をひっくり返そうとしているかのような記事も出始めた。これはいかんと決心し、歴代首相の合意を形成して小泉さんに伝えることを考えたのです。中曽根元首相は出席してもらえなかったが、考えは間違っていないと言ってくれました。 ――それでも小泉さんは聞きませんでした。 そうだろうとは思ったが、日本の歴代首相が必ずしも参拝に賛成じゃないと内外に伝わることが重要でした。 ――毎年、戦没者追悼式で戦争の責任に触れましたね。 それがニュースになるほど全体の流れは違っていたということです。だから年1回、何を言うかを考えていた。 ――昨今、ハト派は劣勢でした。 古くは大平首相の死が痛かった。ハト派一辺倒じゃなかったけれど、懐の深い人でしたから。宮沢政権が早く幕を閉じたのも大きかった。 ――ハト派の河野さんと加藤紘一さんが手を組めず、力がそがれた面も感じます。 加藤さんの考えには共感することが多いけれど、かつて政治行動では食い違いが多かったですね。それより、世界の右傾化の流れも少し変わってきた。さらに、オバマ大統領の登場が世界の潮流を変えるかもしれない。 ――イラク戦争の挫折が大きかったのでしょう。 あの戦争は最初から問題だと思ったから「日本が支持を表明するのは反対だ。せいぜいやむを得ないぐらいが限度では」と、当時、小泉さんに言ったんですけどね。米大統領・オバマ氏は広島に来るか ――4月にプラハでオバマ米大統領が核廃絶を目指すと演説しました。 歴史的でしたね。とくに核を使用した唯一の核保有国としての道義的責任に触れたくだりを聞いて、もしかするとペロシ下院議長の広島訪問が演説の下地にあったかな、と思いました。民主党の実力者ですから。 ――昨年9月に河野さんが開いたG8諸国の下院議長サミットですね。 ペロシさんは広島の現実をしっかり見て驚き、感じ入った様子で「大変印象深い旅でした。この次は家族を連れてきたい」と言ってくれた。残念なのは福田首相の辞任表明が重なり、ニュースが少しかすんでしまったことです。 ――次は、オバマ大統領が広島に来るかどうかです。 広島に来れば、自分の発言は間違いなかった、核廃絶の方向は正しかったと確信をもつ可能性があるから、これはとても大事なこと。一方、プラハ演説のあとオバマさんは国内保守勢力の圧力を感じているだろうし、欧州の核保有国も若干冷ややかみたいだから孤立が心配です。広島には来ないかも知れないし、ついでに立ち寄るような中途半端な形でない方がいいのだが。今は様子を見ています。 ――6月末に国会で核廃絶への決議が採択されたのは、河野議長の肝いりでしょ。 できてよかったと感謝していますが、オバマ演説に打てば響く感じで決議がすぐできればもっとよかった。オバマ演説をはっきり支持し、唯一の被爆国としての責務を強調することによって国際社会の流れをリードしてほしかったのですが、中身もそこまで鮮明ではなかったのが少し残念ですね。 ――「非核」は河野さんの悲願。国連でも核廃絶をうたう決議を採択させましたね。 15年前、村山政権の外相になって間もないころです。米国を気づかって尻込みする出先を叱咤(しった)激励し、絶対に降りるなと言い続けてやらせた。それから毎年同じ決議を通しているんだけれど、中身はほとんど進んでない。そろそろ作戦変更も考えないと。 ――いま、北朝鮮が核の保有国を目指しています。 北朝鮮をいさめる国際世論を高めることは大事ですが、圧力だけであの国を変えるのは無理のようだし、まずは核保有国が核軍縮を進めなければ説得力もない。それに米国はいつの間にかインドの核保有を容認してしまったが、これでは北朝鮮だって誤解するだろう。 こういうご都合主義には日本も物を言わなければいけない。もちろん拉致問題にも真剣な取り組みが必要ですが、唯一の被爆国として核廃絶の先頭に立つべき日本としては、6者協議でもっと役割を果たすべきでしょう。 ――ところで、核を積んだ米艦船の沖縄寄港を認める密約が日米にあったと、元外務事務次官が明かしました。文書は廃棄されたとも。外相時代に知っていたのでは。 いや、僕のころには聞いたこともなかった。だから正直言って分からないんです。 ――衆院解散前、外務委員長だった長男の河野太郎さんが、外務省に密約を明かせと迫っていました。民主党も政権をとれば、密約は全部出させると。 密約はないに越したことはないし、いま存否を調べるのはいいが、いずれにしてもかなり昔のことです。いやなのは、これをチャンスとばかり非核三原則を変えさせようという動きがあること。武器輸出禁止三原則もそうですが、平和を大切にする日本の基本政策は崩すべきではない。 ――9条をはじめ護憲の考えに変わりありませんか。 もちろん。とてもよい憲法ですから。








