ストーリー日本最古級の大仏、雨ざらしに 仏堂再建、そして… 飛鳥寺の近現代塚本和人印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

[PR]

第3部「飛鳥寺(近現代)編」(1) 奈良県明日香村を中心とする古代遺跡群「飛鳥・藤原の宮都」が、世界文化遺産に登録される見通しとなった。 連載「飛鳥雑記帳」第2部では、その構成資産の一つで、日本で最初の本格的な仏教寺院・飛鳥寺(明日香村飛鳥)のルーツを探った。第1部「石神遺跡編」から読む第2部「飛鳥寺(古代)編」から読む 「首都・飛鳥」の中心部にあった飛鳥寺。当時造られた国内最古級の金銅仏「飛鳥大仏」はいまも寺の本堂に安置されているが、その歴史には紆余(うよ)曲折があった。 第3部では、古代に栄えた飛鳥寺の「その後」を探る。 飛鳥寺は養老2(718)年、平城京への遷都に伴い、奈良市内に「元興寺(がんごうじ)」として新築移転された。 だが、飛鳥の地から消滅したわけではなかった。 「本(もと)元興寺」という名前で法灯が継承され、奈良の「元興寺」と飛鳥の「本元興寺」はそれぞれ別の寺として存在していたようだ。 ところが、鎌倉時代初めの建久7(1196)年6月、飛鳥寺は落雷で仏堂と塔が焼失。あとには、飛鳥大仏の仏頭と手だけが残されたと伝えられる。 朝鮮半島の百済(くだら)国の支援を受けて造営された日本初の仏寺の伽藍は、ここに姿を消した。 そして、翌建久8(1197)年3月24日、塔跡の心柱の下から「百余粒」の舎利(しゃり)(釈迦(しゃか)の骨)と「金銀器物」が掘り出されたとの記録が、東大寺の僧・弁暁(べんぎょう)が記した「本元興寺塔下堀出御舎利縁起」にある。 このとき掘り出された舎利と金銀器物とは、593年に蘇我馬子らによって塔心礎(しんそ)の内部に埋められた舎利と舎利容器だったとみられるが、掘り出された後の行方はほとんど分かっていない。 このあと、飛鳥寺は歴史の表舞台から消えてしまう。 仏堂は再建されず、止利(とり)仏師がつくった国内最古級の金銅仏(飛鳥大仏)は、ぼろぼろの姿のまま雨ざらしだった、と伝えられる。 それから400年余り経った江戸時代初め、仏堂がようやく再建される。 飛鳥寺近くの旧家に伝わる古…この記事は有料記事です。残り1084文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人塚本和人橿原支局長|寺社・文化財専門・関心分野歴史、考古学、外交、国際関係関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする