ストーリー飛鳥寺住職がくぐり抜けた「八熱の地獄」 ビール箱の祭壇で慰霊祭塚本和人印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

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第3部「飛鳥寺(近現代)編」(7) 昭和13(1938)年の夏、奈良県飛鳥村(現・明日香村飛鳥)の飛鳥寺の住職、山本雨宝(うほう)(1903~88)は、中国・江南の水郷の村々で激しい戦闘の渦中にいた。 雨宝が残した「陣中余録」によれば、雨宝たちはクリーク(運河)を船で進みながら中国軍の陣地を攻略していった。夜は集落近くの桑畑などに露営した。 杭州に近い海塩(現・浙江省海塩県)の海岸で見た寺院のことが、余録に記されている。 海塩は抗日感情の激しい地域だったという。ある寺に「復興中華民国 収回失地目的 打倒東洋赤老」と書かれていたとある。寺の外壁に記されていたのだろうか。「赤老」は、中国江南地方の方言でごろつきやならず者を意味し、日本をののしる言葉だった。 雨宝は《籠城(ろうじょう)中の所見は左記の拙(つたな)き歌にてお察し願いたい》と記した上で、以下の歌を詠んだ。 《この地には 人の命ぞ易(やす)くあはれ 今し捕(とら)へし 後は空しく》 《号叫の何かと思ひ 立ちよれば この世の別れ ここにもありて》 雨宝は帝国陸軍軍人として戦う一方で、宗教者として、敵と味方、国籍を超え、人の生き死にに対し、思うところがあったようだ。 雨宝は8月末まで杭州付近で戦闘に明け暮れた後、中華民国の首都だった南京(江蘇省南京市)に入った。 南京については、次のようにつづっている。 《国民政府の首都だけあって…この記事は有料記事です。残り968文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人塚本和人橿原支局長|寺社・文化財専門・関心分野歴史、考古学、外交、国際関係関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする