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第3部「飛鳥寺(近現代)編」(5) 奈良県明日香村飛鳥の飛鳥寺(安居院(あんごいん))を再興させた山本雨宝(1903~88)は生前、奈良県桜井市初瀬の長谷寺(はせでら)に、父・丸山貫長(かんちょう)(1844~1927)の遺品を納めていた。 そこに含まれていた手紙から、貫長と岡倉天心(1863~1913、本名・覚三)の深いつながりが明らかになった。 今回は雨宝のルーツを探るため、前回に続き、父・貫長の足跡をたどる。 明治初めの神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)など政府の宗教政策の下で、人々の信仰心は薄れていた。 貫長のまな弟子で、インドに渡り、27歳で死去した堀至徳(1876~1903)が残していた日記や関連文書を調査し、貫長の実像を追いかけてきた元皇学館大学教授の池田久代さん(76)に会い、貫長と岡倉天心の交流について聞いた。 池田さんによれば、貫長は明治15(1882)年、室生寺(むろうじ)(奈良県宇陀市室生)の住職に就くと、荒廃した寺の再興とともに、仏教復興運動に乗りだす。 真言宗を開いた空海(774~835)が創設し、庶民に開かれた初めての私立学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」にならい、出家と在家がともに学ぶ修行道場の設立を目指すなど革新的な仏教復興運動だった。 明治18(1885)年、真言密教の拠点だった室生寺に新たな道場(真言実行(じつぎょう)院)を開く許可を求める願書を大阪府知事に出し、許可されていた。 ちょうどそのころに、天心と貫長が出会った。 天心は明治21(1888)…この記事は有料記事です。残り1460文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人塚本和人橿原支局長|寺社・文化財専門・関心分野歴史、考古学、外交、国際関係関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする