ストーリー戦時下の供出、失われた梵鐘 飛鳥寺住職が出した再三の「免除願」塚本和人印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする
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第3部「飛鳥寺(近現代)編」(8) 昭和14(1939)年2月、奈良県飛鳥村(現・明日香村飛鳥)の飛鳥寺住職だった山本雨宝(うほう)(1903~88)は、九死に一生を得て中国戦線から帰還した。 雨宝が書き残した「一生年譜」によれば、寺の経済的な基盤は不安定なままだった。 雨宝は寺の再興に向けて動き始めた。 帰国から約半年後の9月30日、村の有力者たちを集めた「飛鳥寺顕彰会」の発会式を開いた。 翌年7月には飛鳥大仏が国宝に指定された。 雨宝が軍に召集される前、新聞社が読者の意見に基づいて人気のある寺を選んだ「新西国霊場」の一つに飛鳥寺が選ばれていた。雨宝は飛鳥寺に多くの参拝者を迎えようと、境内に観音堂の新築を目指した。 大阪の遊郭街にも足を運び、浄財を募り、真珠湾攻撃直後の昭和16(1941)年12月18日、観音堂の落慶法要を営んだ。 この年、飛鳥寺を応援するための、現代で言えば「友の会」のような組織「飛鳥寺保勝会」をつくり、会員を広く集めるなど先進的な取り組みを始めた。 だが、日本を包む戦争の影は、ますます深まっていた。 政府は資源不足を補うため…この記事は有料記事です。残り1204文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人塚本和人橿原支局長|寺社・文化財専門・関心分野歴史、考古学、外交、国際関係関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする






