ストーリー中野晃印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする
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100年の軌跡 尹さん一家の物語 第3話 在日朝鮮人2世の尹美生(ユンミセン)さん(72)=大阪市住之江区=の幼い頃の記憶は、「オモニ」(お母さん)が苦労を重ねた山奥の「飯場(はんば)」(作業員宿舎)から始まる。自転車に作業員の弁当を山のように積み、急な山道を登る母の姿が目に浮かぶ。 和歌山県有田川町を拠点に土木工事を手がけた父の尹重伯(ユンチュンベク)さんは1960年頃、上流域の山林を切り開いて道路や堰堤(えんてい)を築く工事を請け負った。 電気も水道もない山奥で約70人の作業員の食事作りを担い、下流の町へ買い出しに出かけたのが母の孫春任(ソンチュンイム)さんだった。 単車に大量の食材を積み、橋のない川を渡ろうとして倒れ、荷物が流された時はつらかったと、後に母がこぼした。 運転手がいない時はダンプカーのハンドルを握り、煩雑な事務作業を一手にこなして、母は父の会社を支えた。 日々の家事にも追われ、キムチ、梅干し、みそと何でも手作りした。器用で自身の服や子どもの制服もミシンで縫製した。 勤勉でもあった。岩波書店の「世界」が愛読書で、本棚には「思想の科学」や「婦人公論」も並んでいた。少女期に勉学への願いを断ち切られた母は向学心が強かった。 母は戦前、日本が支配した植民地朝鮮の慶尚北道(キョンサンプクト)(現韓国)で生まれ、赤ん坊の時に美生さんの祖母に抱かれて日本へ渡った。先に来ていた祖父は土木工事で長野や岐阜などを転々としていた。 「先祖から受け継いだ山林や田畑は、気づいた時には見知らぬ日本人のものになっていた。故郷で生活できなくなり、やむなく日本に渡ってきた」。母は、祖父からそう聞かされたという。 戦争中は山梨県の富士川沿いで暮らした。発電所や導水路のトンネル工事に多くの朝鮮人が動員されていた。母は村の国民学校(小学校)で学び、創氏改名で「近藤春子」と名乗った。日本の敗戦で「もうこれで空襲はない」とほっとした。 戦後、母の一家は祖国に戻る…この記事は有料記事です。残り529文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする






