ストーリー中野晃印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする
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100年の軌跡 尹さん一家の物語 第1話 20年前の2006年5月初旬。記者は平壌(ピョンヤン)中心部にある高麗ホテルで、和歌山県から来た尹重伯(ユンチュンベク)さんが泊まる部屋を訪ねた。重伯さんは、北朝鮮で暮らす姉のスンギさんと並んで腰掛けていた。 当時90歳と80歳の姉弟は45年ぶりに再会を果たした。離ればなれだった歳月を埋め戻すかのように、じっと手を握り合った。 朝鮮半島の分断後初の南北首脳会談(00年)を機に、記者は折々、在日コリアンの人々が背負う歴史を追った。 重伯さんとは、大阪の朝鮮学校を運営する学校法人で事務を担う娘の尹美生(ミセン)さん=大阪市住之江区=を通じて知り合った。「父が、生き別れた姉に会うため共和国(朝鮮民主主義人民共和国)に行く」と聞かされた。 スンギさん、重伯さん姉弟は、日本が植民地支配した朝鮮半島の南部(現韓国)の慶尚北道の山村で生まれ育ち、太平洋戦争前に日本へ渡った。 1945年の日本の敗戦後、日本軍の武装解除のため米軍とソ連軍が朝鮮半島に進駐し、北緯38度線を境に南北に分割占領した。48年、南北に二つの政府が発足し、同じ民族が銃を向け合う朝鮮戦争(50~53年)を経て分断が固定化された。 59年、日朝両赤十字社の合意による在日朝鮮人の「帰国事業」が始まった。日本社会での差別や貧困を背景に、多くの在日が北朝鮮へと海を渡った。当時の日本は韓国とも国交がなく、韓国では独裁・軍事政権が続いていた。 スンギさんの家族は九州の炭鉱で暮らしていたが、炭鉱の閉鎖で夫は職を失い、和歌山で基盤を築いた重伯さんのもとに一時身を寄せた。「日本にいても朝鮮人にまともな仕事はない」。スンギさんは夫、子どもと61年、新潟港で帰国船に乗った。帰国事業は84年まで続き、計約9万3千人が海を渡った。 2006年春、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)大阪府本部が、北朝鮮で暮らす肉親との再会を願う同胞に「短期祖国訪問団」への参加を募った。韓国籍の重伯さんは「北朝鮮に行けば、韓国の故郷の墓参りに行きづらくなるのでは」と心配したが、美生さんが「父がおばと会える最後の機会になるかも知れない」と考え、説得した。訪問団に同行する形で記者は北朝鮮に入った。 平壌から車で約2時間半、ス…この記事は有料記事です。残り653文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする






