母の背で亡くなった妹、最期に牛乳求めた弟 そしてすれ違った父母柳沼広幸印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする
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「飢えと伝染病で次々と死んでいった。悲しむ余裕もなかった」 今から81年前のこと。宮城県石巻市錦町の早川豊美さん(91)は、戦地の記憶を思い起こした。零下30度、おしっこが凍る旧満州の生活 粕川村(現・大郷町)出身。4歳だった1939年、2歳下の妹と共に、両親に連れられて当時の満州(中国東北部)に渡った。宮城県各地から参加した農業移民の満蒙開拓団「第六次 宮城村」の一員だった。松花江(しょうかこう)北岸にあった宮城村では、193戸約770人(終戦時)が広大な畑でトウモロコシやジャガイモ、大豆などを作った。 満州の冬は零下30度を下回る。「おしっこをすると途中で凍ってくる」。宮城在満国民学校(小学校)は寄宿舎生活で、家に帰れるのは週末だけだった。 自宅で、母屋から離れた所にある風呂に入った後、母・とみさんがおぶって家まで運んでくれた。弟や妹も生まれて甘えられなかったから、風呂上がりのふれあいが忘れられない。密航船で暁の決死行、樺太からの脱出 12歳でかかわった戦後処理「17歳で死ななきゃいけないのか…」 階級章のない少年兵の絶望 戦況が悪化すると、満州の暮らしは一変した。開拓団の成人男性は「根こそぎ動員」で日本軍に召集され、豊美さんの父親も44年から兵役に就いて不在に。そして終戦間際の45年8月9日、ソ連軍(当時)が攻めてきた。生きるため中国に残った母、シベリア帰りの父は…… 女性と子どもばかりの開拓団で避難が始まる。屋根のない貨車で雨に打たれ、新京(現・長春)を目指した。ソ連兵の暴行や略奪、武装した中国人の襲撃に遭った。 早川さん一家は母ときょうだ…この記事は有料記事です。残り1631文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする






