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広島市の稲垣紘子さん(85)は毎月8日の昼過ぎ、掃除道具をかごに入れ、ピンク色の自転車を走らせる。向かうのは、広島平和記念公園の近くにある、県立広島第二中学校(現・広島観音高校)の慰霊碑だ。被爆して亡くなった生徒や職員354人の氏名が刻まれている。 碑は、爆心地からわずか600メートルの場所に建つ。被爆の瞬間、兄の岩崎全孝(まさたか)さん(当時13)は300人以上の同級生らと「ここ」にいて、被爆後、家に帰ろうとしたのだ。未来を信じて12歳で逝った娘 欲したミカン 母は一生食べなかったいつも優しくて頼りになる兄 兄が二中に編入したのは被爆する約2カ月前の1945年6月。春までは一家で千葉県に住んでいたが、自宅近くに焼夷(しょうい)弾が落ちて母が不安になり、子ども5人と広島の実家に疎開した。 兄は「父と千葉に残る」とごねたが、半ば強引に広島に連れてこられた。 稲垣さんにとって、兄はいつも優しく頼りになる存在だった。 暗いトイレが怖くて「お兄ちゃん」と言えば、いつも付き添ってくれた。 登校する兄の背中に「行ってらっしゃい」と言えば、「行って参ります」と元気よく返してくれた。 でも、8月6日は違った。 朝、兄は台所で「今日だけは休ませてほしい」と母に何度もお願いしたが、「ずる休みはだめ」と言われ、下を向いて黙って家を出た。 その日は建物疎開作業で、兄は同級生320人と共に爆心地から600メートルの中島新町(現同市中区)の河岸にいた。 原爆が落とされたとき、爆心地から4キロ離れた家ですら、強風が吹き込みガラス戸は全て割れた。 帰ってこない兄を心配した母は、当時1歳の弟を背負い、稲垣さんの手を引っ張って広島市中心部に向かった。 市中心部に近づくにつれ、皮膚が垂れ下がった人たちが黙って下を向いて歩く姿を目にするようになった。地面は焼けて熱く、息苦しい。防火用水にげたをつけて冷やそうと思ったら、熱湯だった。出した稲垣さんに、母は1人で家に帰るよう促した。 夜、母は落ちこんで帰ってきた。兄が作業をしていた場所で「誰か二中の生徒を知りませんか」と泣きながら尋ね歩いたが、見つからなかったという。 翌日も夜が明けないうちに、母は兄を探しに行った。警防団の人から「横川町の信用金庫の建物内に中学生がいた」と聞いた母は、建物に入るなり、大声で尋ねた。 「岩崎全孝はいませんか」 すると目の前で1人が立ち上がり、「僕」と言った。顔が大きく腫れ上がり、焼け溶けた皮膚が目に覆いかぶさっていた。「みんな死んだ」兄は家に帰ろうとした 我が子とは信じられず、「本当に全孝なの」と聞き返すと、「うん、僕だよ、お母さん」とつぶやいた。 腕の皮膚はぼろぞうきんのように垂れ下がり、爪の部分で止まっていた。焼け残った名札を見て、やっと息子であることが分かった。 母は通りすがりの自動車に頼み、7日昼に兄を連れて帰宅した。兄を寝かせた後、母は「みんなは、どうしたの」と聞いた。 兄は神経がまひしていたのか、痛がる様子はなく、ぽつぽつと話し始めた。 みんな死んだよ。僕の目の前に爆弾が落ちたんだ。 みんな爆風に吹き飛ばされて、大やけどを負った。 すぐに横の川に飛び込んだけど、お湯のように熱い。 それでも熱さから逃れたくて川の中で耐えていたら、力尽きて流された友達がたくさんいた。 そのうち満潮になって、水かさが増してきた。陸に上がって家を目指したけど、目が見えなくなって家の方角が分からなくなった。だから建物で夜を明かしたんだ――。 その後は、日頃よく口ずさんでいた当時の流行軍歌を寝ながら歌ったり、うわごとを言ったりした。「僕はもうダメだと言われたね」 8日昼にようやく来てくれた医師は兄を見るなり「もうダメですね」とすぐに玄関に向かった。 兄は「お母さん、先生が僕はもうダメだと言われたね」と言った。母は何も答えられなかった。 そのまま兄はギリギリと歯ぎしりをし、医者が家を出る前に息を引き取った。 「全孝」と母が何度も叫んだ。「お兄ちゃんが死んだ」。稲垣さんはショックのあまり、兄の遺体の周りを泣きながら何周も歩いた。見知らぬ男性救い、13歳で逝った姉 「生きた証」60年後に戻った 9日、荼毘(だび)に付すときも母はかたくなに行こうとしなかった。稲垣さんは「大好きなお兄ちゃんの最後だから」と焼き場までの坂道を登った。その日は雨が降っていた。うまく焼き切れなかった頭蓋骨(ずがいこつ)が路上にいくつも転がっていた。 稲垣さんは「お兄ちゃんはきれいに焼けたらいいな」と願いながら、兄の遺体が燃えるのをじっと見つめた。「私が殺した」死ぬまで繰り返した母 疎開するときも、6日に登校するときも、本人の気持ちを聞かず無理やり行かせてしまった――。 母は自分を責め続けた。気が強く働き者の母が朝から晩まで黙って座る日々。その姿がまるで正気を失ってしまったかのように見えた。 祖母に「他にも子どもがいるんだからしっかりしなさい」と叱られても動けない。姉が「しっかりせにゃ」と声をかけても「そうね」の生返事。動けない母のため、父は東京での仕事を辞め、広島に移った。 1961年、兄が被爆した場所に碑が建てられた。両親は梅雨が明けると、墨と筆を持って碑へ通った。息子とその級友が被爆後に飛び込んだ本川で水をすくって墨をすり、雨風で白くなった名前を、一人ひとり、数日間かけて黒くなぞった。稲垣さんが、そのことを知ったのは社会人になってからだった。 「母は死ぬまで『私が殺した』と悔やんでいた。わび状を書くような思いで1人ずつ墨入れしたんでしょうね」 両親が亡くなり、一度、娘と2人で慰霊碑の墨入れをした。だが筆がすぐにボロボロになってしまう上、途方もない時間がかかるので諦めた。体が動く限り、兄が眠る場所へ 代わりにできることはないかと始めたのが慰霊碑の掃除だった。5年ほど前から兄の月命日の8日に掃除し、花を手向けている。来たときに「お兄ちゃん、来たよ」とあいさつし、6時間ほど掃除して帰るときは「また来月来るからね」と兄の名前を指でさすりながら声をかける。「頭痛がする」と訴えた兄 「甘えるな」と登校させた父親の深い後悔 だが持病が複数ある上、腰も悪くなった。夫も心配している。梅雨が明けた7月8日を最後の掃除と決めた。 その日の朝、自転車の荷台にほうきや熊手を積み、道中で花とお茶を買った。碑の周囲にたまった落ち葉やゴミを集め、高さ1メートル幅4メートルの碑を水拭きする。 黙々と作業していると、兄と過ごした日々が昨日のことのように思い出されて胸が熱くなる。途中で、目元ににじむ涙を何度も手の甲でぬぐった。【挿し動画】原爆で兄・全孝さんを亡くし、記憶を語る稲垣紘子さん=田辺拓也撮影 被爆者として戦争の愚かさと核兵器の恐ろしさを伝える語り部もしたかった。ただ、今でも兄のことを考えるたびに泣いてしまい、うまく話せないだろうと断念した。 掃除の最後。慰霊碑に刻まれた名前一人ひとりにお茶をかけて、花を手向け、線香に火を付けた。 離れる前に、碑に刻まれた兄の名前をなでた。「今日で掃除は最後にするね。ごめんなさいね。お花とお茶は来月も持ってくるから」と声をかけた。 体が動く限りは、兄が友だちと眠るこの場所に来る。◇ 朝日新聞は核兵器の非人道性を伝えるため、遺族の同意と早稲田大理工学術院の石川博教授の協力を得た上で、石川研究室が開発した人工知能(AI)技術と、取材で得た遺族の色の記憶を用い、被爆死した子どもの生前写真をカラー化した。【予告動画】被爆81年連載「忘れない あなたを」