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山口県下松市の村中郁子さん(81)は6日、広島市の平和記念式典に同県の遺族代表として参列した。被爆当日に父、2年後に母を亡くし、自身も生後10カ月で被爆。幼いころから体が弱く、原爆症の恐怖におびえながら戦後を生きてきた。 村中さんのスマートフォンには若かった両親の写真が保存されている。東京にいる次兄の宮川武志さん(85)の自宅から見つかり、2年ほど前に送ってくれた。 軍服姿で立つ父・宮川孝夫さんと、そばに和服姿で腰掛ける母・イワエさん。両親の記憶が全くない村中さんが、初めて目にした2人の写真だ。 「そばに一緒にいてくれたらどんなだったのかな、と思いました」 終戦前、村中さんは両親、兄2人と爆心地から約1.7キロの観音本町(現・広島市西区)に住んでいた。1945年8月6日朝、兄らが近くの防空壕(ごう)でけんかをしていたため、心配した母が村中さんを背負って壕に入った。その時、原爆が投下された。被爆後、父は33歳、母は32歳で死亡 中国憲兵隊司令部に勤めていた父は前夜から当直で、爆心地に近い司令部にいた。やがて同僚が「宮川少尉は亡くなりました」と父の死を知らせに来た。33歳だった。 母子4人は母の実家のある山口県下松市へ避難した。まもなく兄2人は現在の同県美祢市にある父の実家に移った。 母は体調を崩して入院した。武志さんによると、きょうだい3人は伯母か祖母に連れられて見舞いに行った。「病気がうつるからという理由で、ガラス越しにしか会えなかった」 村中さんは、海が見える病院だったという記憶しかない。母は「大きくなりなさいよ。良い子になりなさいよ」と話しかけてくれたと後から聞いた。被爆から2年後の8月、32歳で亡くなった。 村中さんが離れて暮らしていた兄らに会いに行ったのは小学校4年の時。兄の存在は聞かされていたが、肉親に会えたという実感はなかった。交流が始まったのはずっと後、就職してからだ。 下松市で祖母らに育てられた村中さんはよく高熱を出した。歯茎から血が出たり、布団から起きると鼻血が出ていたりした。 「この子も被爆しているからいつ原爆症で命がなくなるかわからんね」。寝床で大人たちのこんな声が聞こえた。原爆に関わるニュースがあると布団を頭から被って祈った。 「せめて高校までは命をちょうだい。結婚するまでは命をください」見知らぬ男性救い、13歳で逝った姉 「生きた証」60年後に戻った「被爆の影響かもしれない」夫に打ち明けると 祖母らはしつけに厳しかった。「親がいないから、と言われないように」と茶道、生け花、楽器、弓道などいろんな習い事をさせてくれた。料理の上手な伯母を見て育ったため、高校卒業後に調理師の資格を取って就職し、やがて結婚した。 被爆者への偏見や差別が強か…この記事は有料記事です。残り436文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人翁長忠雄広島総局専門・関心分野中東、東南アジア、原爆、沖縄関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする