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戦争とハンセン病のはざまで:後編 国立ハンセン病療養所「多磨全生園」(東京都東村山市)に平沢保治(やすじ)さん(99)が入所したのは1941(昭和16)年、14歳の聖夜だった。太平洋戦争が始まったばかり。ひざにできた傷の感覚がなく、診察した医師から「1年もすれば治るから」と言われ、故郷の茨城県を離れた。「早く治して学校へ戻ろうという気持ちが強かった。それから85年もここで暮らすことになるとは」と当時を振り返る。 門をくぐると、着ていた服は取り上げられて裸で消毒液をかけられた。縦じまの着物と現金代わりの「園内通用券」を渡された。「ここには火葬場もあるよ」と周囲に言われ、子ども心に思った。「病院だと思って入ったのに、違うかもしれない」。 園内はまるで「刑務所」だった。少年寮の雑居部屋でのいじめもひどく、足を縛られてかもいにつるされたり、ほうきが折れるほど殴られたりすることもあった。 「牢屋」もあった。園外に無断で出たら入れると脅された。反抗的な態度で「草津送り」になった人がいるとも聞かされた。群馬県草津町の療養所「栗生楽泉園」にある懲罰施設「重監房」への収監のことで、死刑を宣告されるようなものだ。 当時、治療薬として使われた「大風子油」の注射も子どもにはつらい痛みだった。根治する薬ではなかったが、「この一本を我慢すれば、一日でも早く親に会える」と尻や足に打ち続けた。地獄の先の、もっとひどいところへ 戦況が厳しくなるにつれ、食…この記事は有料記事です。残り1033文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

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この記事を書いた人上田学ネットワーク報道本部|首都圏ニュースセンター専門・関心分野都市再開発、まちづくり、消費者問題、教育、福祉・介護関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする