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令和に入って宮崎県代表校で「甲子園1勝」に最も近づいたのは宮崎商だ。2024年夏は3―4、25年夏は5―6といずれも1点差の惜敗だった。だが、監督の橋口光朗さん(37)は「完全に力不足だった」と振り返る。 24年は1回戦で中京大中京(愛知)と対戦した。春夏計11回の全国優勝を誇る古豪だが、橋口さんにも選手たちにも臆する気持ちはなかった。試合は2点を先行されるも六回に追い付き、七回表に1点を勝ち越した。 試合終盤に継投のマウンドを託す予定だった遊撃手の中村奈一輝選手=現中日ドラゴンズ=は、最速146キロの直球を投げる剛腕。好投を続けていた先発投手の様子をみながら、キリのよいところで中村選手に継投して逃げ切る。描いた勝利プランは、思わぬアクシデントで崩れた。 七回裏の守備。後方への飛球を追った中村選手の足がつり、全力投球が難しくなった。直後にピンチを迎えたが、先発投手を続投させるほかなかった。2点を失って試合に敗れた。 橋口さんは「精いっぱいの戦いをしたが、これでも足りないのか」と思った。宮崎商には複数の好投手や好打者がいて、甲子園での戦いにも自信があった。「でも、遊撃手の中村に終盤のマウンドを託すしか勝利への選択肢がなかった。選手層の厚みがなかった」露呈した「チームの弱さ」 25年の夏は宮崎大会5試合のうち4試合を1点差で勝つ、粘りの野球で甲子園に出場した。1回戦の相手は開星(島根)。3点差を追い付き、そこから2点をリードされても九回表に再び同点とした。チームの特長を発揮した戦いぶりに、スタンドからも大きな拍手が湧き、追い風が吹いたように見えた。 だが、延長タイブレーク十回表の攻撃は先頭打者がバントを決められずに三振。次打者も内野ゴロで併殺に倒れ無得点に終わった。その裏の守備では、先頭打者のバントを処理した野手が悪送球してピンチを広げると、犠飛を打たれてサヨナラ負けした。 橋口さんはこの十回の攻防に、隠していたチームの弱さが露呈したと振り返る。この代のチームで前年夏の甲子園にベンチ入りしていた選手は1人だけ。「バントが不得意、送球が不安定。そうした選手もいる弱みをごまかしながら地方大会を勝ち上がったが、甲子園では通用しません」 自身の力量不足も感じたという。「例えば、経験豊富な明徳義塾(高知)の馬淵史郎監督が指揮していたら、この2試合とも勝たせていたと思うんです」。甲子園で勝つための野球をするという普段からの選手への意識付け、大舞台のここぞという場面でも決められるサインプレーの磨き上げ、選手への声掛けやベンチでの振る舞い方――。「感覚的で経験からしか学べないことも多い。指導者の経験、力量はとても大切です」と語る。「決勝を早めたほうがよいかも」 球場での戦い方の他にも改善点があることに気付いた。 橋口さんは昨夏の甲子園を終えると「宮崎大会の決勝日程を早めた方がよいかも知れない」と、県高校野球連盟に経験を伝えた。 宮崎大会の代表校は例年、8月初旬の甲子園大会開幕に合わせて7月末頃に大阪の宿舎に入る。昨夏の宮崎大会決勝は7月26日で、宮崎商はあいさつ回りなどを慌ただしく終えるとすぐに関西へ向かった。「大会を終えて選手たちを3日程度休養させた後、宮崎でしっかり練習して関西に入れば、より良い体調で初戦に臨めると感じました」 県高野連はこの話も踏まえて今夏の大会の日程を検討。決勝を20日に設定した。全国の舞台で積まれた経験が一つ、宮崎の高校野球強化のために生かされた。橋口光朗さん 1988年生まれ、宮崎県日向市出身。宮崎商で主将を務め、東洋大へ進んだ。大学4年次には学生コーチ、卒業後も大学職員としてコーチを続け大学日本一を経験。2013年から都城東高(現桜美学園高)で部長、監督。15年に母校に戻り、18年8月から監督を務める。 ◇ 春と夏を合わせた宮崎代表の戦績は、2018年夏の第100回大会で日南学園が初戦で勝ったのを最後に、令和に入ってから0勝。これは全国で宮崎のみだ。甲子園で勝つには何が必要なのか。ヒントを得ようと高校野球に携わる人々を訪ねた。【県外の指導者は】甲子園は「間違いなく難しい」 令和0勝、宮崎代表に何が必要なのか【プロ野球選手は】宮崎大会で好投しても 常連校との違いは【野球解説者は】宮崎代表は「十分戦えている」 勝利のヒント【専門家は】金足農の準Vにつながった理論と実践【前理事長は】「甲子園で勝てなくても素晴らしい」と語った真意【理事長は】甲子園での勝利へ取り組んでいること