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太平洋戦争末期の1945年6月6日、日本軍の特別攻撃隊員となった20歳の男性が沖縄沖の海上で帰らぬ人となった。80年以上たったいま、男性が日記や手紙に残した肉筆に故郷の教師が息を吹き込み、一人の若者としての姿を伝え続けている。 佐賀県唐津市の盛田美紀子さん(61)がその人のことを初めて知ったのは、20年以上前、中学校の教諭として修学旅行生を引率し、鹿児島県の知覧特攻平和会館を訪れた時のことだ。 米軍の艦船を飛行機の体当たりで沈めようという日本軍の特別攻撃隊の出撃基地となった地で、館内では特攻で命を落とした隊員たちの遺品や遺影を展示している。 盛田さんは館内で、佐賀県出身の隊員について調べてみた。「吉森(よしもり)茂」という名の隊員が亡くなったことを知った。 吉森。その姓にはなじみがある。市内の浜玉町の一地区に多い。浜玉の人ではないかと考えた。 2010年に浜玉地区の浜玉中に転勤すると、頭に刻まれた吉森さんについて、詳しく知りたいと思うようになった。 保護者のつてで吉森さんを知る人を探すと、おいの妻の三枝子さん(76)が地区で暮らしていることがわかった。足を運ぶと、三枝子さんは、一家が大切に保管してきた遺品を見せてくれた。 15歳の時に陸軍の航空学校に入り、1945年6月6日、20歳の時、台湾・台中から沖縄周辺の米軍に向け出撃した吉森さん。 《大和櫻は笑みて散り行く》 そう死への決意を記した遺書や軍の学校時代の日記などが残されていた。「自分ごと」と感じてもらうには 盛田さん自身が子どもの頃は…この記事は有料記事です。残り1856文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません
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この記事を書いた人岡田将平佐賀総局専門・関心分野平和、戦争体験の記録・継承、地方関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする






