ストーリー「救える命が失われている」 がんになった議員の告白、国を動かした松本千聖 千葉恵理子印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

[PR]

がん対策基本法ができる以前の2000年代初め、地域の医療格差や、海外で使える薬が日本で使えないドラッグ・ラグの問題を訴える声が相次いでいた。 声をあげた一人が、島根県出雲市の佐藤均さん。報道カメラマンの仕事にいそしんでいた50代で、大腸がんと診断された。手術を受けたが肝臓に転移がわかり、抗がん剤治療をすることに。眠れず食事も取れない強い副作用に苦しんだ。 こんなに苦しくてどうすればいいのか。ほかに薬はないのか。医師に尋ねても、納得するような説明はなかった。「手術は一生懸命やってくれたのに、なぜなのか」 抗がん剤に精通する医師を求めて、東京へ治療に通うようになった。月に何度も飛行機で上京。次第に、治療を続けながらも働けるくらいに調子は良くなった。「治療がない」さまよう患者 集まった約2800人 転移や再発によって、納得できる治療が受けられなくなり、さまよう患者は自分だけではなかったことに気がついた。のちに「がん難民」と呼ばれた。 治療の中で出会った患者たちとともに、「がんと共に生きる会」の活動に加わった。抗がん剤を専門とする医師が地方に少ないことや、ドラッグ・ラグの課題があると知り、2万以上の署名を集め、地元の県議会や厚生労働省への陳情を進めた。 妻の愛子さん(79)は、「自分のためだけではなく、子どもや孫たちが病気になったときに苦しまないよう、国を動かしたいという強い思いがあった」と振り返る。 ほかの患者団体や医療従事者、メディアとのつながりが生まれ、05年5月、大阪で「第1回がん患者大集会」が開かれた。治療中の人、車いすの人……会場に入りきらないほどの約2800人が集まり、熱気に包まれた。 佐藤さんも体調を押して登壇した。直面してきた課題を挙げ、「患者が声をあげれば変わる」と訴えると、出席していた尾辻秀久厚労相(当時)も前進を約束した。 佐藤さんは大集会の翌月に56歳で亡くなった。そして患者たちの声は、翌年のがん対策基本法成立につながっていく。がん対策基本法の成立から、6月で20年。今では当たり前にある医療や支援が法律をきっかけに整備されました。命がけで課題を訴えた患者と、そのバトンを受け取った政治家の思いから、当時をひもときます。バトンは政治家へ 法案「たなざらし」を変えた告白 政治的にもがん対策への注目は高まり、基本法の成立をめざす動きが出始めた。一方、当時の国会は医療制度改革を巡って与野党が激しく対立。議員立法のがん対策基本法をめぐり、与野党それぞれが法案を提出したが、ほかの法案の陰で「たなざらし状態だった」(尾辻さん)といい、法案の成立は危うい状況だった。 空気が一変したのは2006…この記事は有料記事です。残り1134文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人松本千聖くらし科学医療部専門・関心分野医療、子どもや女性の健康、子育て千葉恵理子くらし科学医療部専門・関心分野医療、ジェンダー、文化関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする