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みなさんは、朝から何もかもうまくいかない日を経験したことがありますか? 時間がない日に限って、探している書類が見つからない。急いで家を出たら、思ったより強い雨。そのうえ車に水をはねられて、服までぬれてしまう……。 そんなとき、涙がこみ上げてくることがあります。でも、それは本当に「水をはねられたこと」だけが原因なのでしょうか。 今回は、落ち込んだ気分から少しずつ抜け出すための方法として、認知行動療法の中でも大切な考え方である「行動活性化」についてご紹介します。娘の進学と新生活、春からの疲れがたまり 注意欠如多動症(ADHD)の主婦リョウさん(架空の人物)は、この春、中学校に進学した娘さんの新生活に合わせて、毎日バタバタしていました。 小学校とは違い、中学校は提出物も多く、親が確認しなければならない書類も増えました。 リョウ「この健康調査票、今日までだったの? え、部活動の希望調査も? ちょっと待って、封筒どこ置いたっけ」 娘「ママ、体育館シューズどこ?」 リョウ「えっ、体育館シューズ? あの辺になかった?」 娘「あと、数学のノート、方眼って言われた」 リョウ「方眼……昨日普通のノート買っちゃったよ……」 さらに、生活リズムも変わりました。朝は少し早くなり、制服の支度、持ち物の確認、お弁当の日の確認、部活動の予定。それらに加えて、娘はよく学校からもらってきた書類をリョウさんに渡し忘れます。 また、娘さんも新しい環境に緊張していて、ときどき帰宅後にぽつりと話し始めます。 娘「明日学校行きたくない」 リョウ「そっか。何かあったの?」 娘「なんか、隣の人、話しかけても、うん、しか言わない」 リョウ「そっかあ……新しいクラスって、疲れるよね」 娘の話はちゃんと聞いてあげたい。 でも、夕食の支度もある。洗濯もある。明日の書類もある。自分の仕事もある。 リョウさんは、気づかないうちに疲れをため込んでいました。外は雨、靴はぬれ、水をはねられ… そんなある朝のことです。 リョウ「やばい、もうこんな時間!」 娘を送り出し、自分もあわてて家を出ようとしました。玄関で靴を履き、勢いよくドアを開けると、外は雨。 リョウ「え……雨? 今日、雨なの?」 天気予報を見る余裕もありませんでした。 傘はありましたが、靴は雨の日用ではありません。駅まで急ぐうちに、つま先からじわじわと水がしみてきました。 リョウ「冷たい……もう、なんで今日に限って」 それでもなんとか会社の近くまでたどり着きました。あと少し。横断歩道の赤信号で立ち止まった、そのときです。 バシャッ。 前を通った車が水たまりをはね、リョウさんの足元とスカートに水がかかりました。 リョウ「……もう、やだ」 その瞬間、涙が一気にあふれました。 水をはねられたことは、たしかに不快な出来事です。でも、リョウさんの涙は、その一瞬だけで出たものではありませんでした。 新学期の書類。学用品の準備。生活リズムの変化。娘の人間関係への心配。自分の仕事。家事。積み重なっていた疲労と緊張が、雨と水しぶきで一気にあふれてしまったのです。不機嫌なオーラで、周囲も話しかけにくく リョウさんはそのまま会社に向かいました。涙をぬぐいながら、肩を落として歩きます。 職場に着いても、顔はこわばったまま。眉間にはしわが寄り、口はへの字。歯を食いしばるようにして、更衣室で制服に着替えました。 同僚「リョウさん、おはようございます」 リョウ「……おはようございます」 小さな声で、ぼそっと返します。 本当は、同僚に怒っているわけではありません。でも、周囲から見ると、リョウさんは少し不機嫌そうに見えました。 その結果、いつもならちょっとした雑談がある朝なのに、その日は誰もあまり話しかけてきませんでした。リョウさんはデスクに座り、さらに落ち込んでいきます。 リョウ「やっぱり私、職場でもうまくいかないんだ」落ち込みの悪循環を断ち切る「行動活性化」 人は落ち込むと、落ち込んだ気分に合った行動をとりやすくなります。悲しいときには、うつむきがちですし、疲れているときには、表情が硬くなりますよね。「どうせ私なんて」と思うと、周囲との関わりを避けたくなるものです。これらは自然な反応です。 ただし、ここに落とし穴があります。気分に一致した行動をとることで、結果的にますます気分が悪くなることがあるのです。 落ち込んでいるから、周囲に話しかけない →話しかけないから、周囲も話しかけにくくなる →周囲が話しかけてこないから、「私は職場でも浮いている」と感じる →ますます最初の落ち込みが強くなっていく この悪循環を断ち切るために使える方法のひとつが、行動活性化です。 行動活性化とは、簡単に言えば、気分がよくなるのを待つのではなく、先に行動を少し変えてみる方法です。「元気になったら動こう」ではなく、「元気がないからこそ、ほんの少しだけ動き方を変えてみよう」という考え方です。 ここで大切なのは、無理に明るく振る舞うことではありません。ポジティブになろうと自分に言い聞かせることでもありません。つらい気持ちをなかったことにするのでもありません。 悲しいし、疲れていて惨めな気持ちで泣きたい。その気持ちは、そのままあっていいのです。 ただ、その気分に完全にのみ込まれて、気分と同じ方向の行動ばかりを選ぶと、状況がさらに悪くなることがあります。リョウさんもそうでしたね。 だから、ほんの少しだけ「気分とは一致しない行動(=普段の行動)」を選んでみるのです。 たとえば、落ち込んでいても、いつもどおりコンビニに寄って、自分のために温かい飲み物を買う。誰かに小さなお菓子を買う。職場で「朝から大変だったんです」と一言だけ話してみる。いかがでしょうか。いつもリョウさんがしていることです。 もし、リョウさんがこんな普段の行動をとっていたらどうなったでしょう。 では、さきほどの朝に戻ってみましょう。いつものコンビニで、温かい飲み物とチョコを 車に水をはねられたリョウさんは、横断歩道で立ち尽くしています。靴はぬれ、スカートにも水がかかっています。涙も出ています。 リョウ「もう、ほんとについてない……」 ここまでは同じです。でも、そのあとリョウさんは、ふと考えました。 リョウ「このまま会社に行ったら、たぶん一日中しょぼくれる。いや、もうすでにしょぼくれてる。でも……いつも朝、コンビニ寄ってるよね」 リョウさんは、泣きそうな顔のまま、会社の近くのコンビニに入りました。 店員「いらっしゃいませ」 リョウ「……あったかいカフェオレ、買おう」 いつもは節約のために買わない、少し甘いカフェオレを手に取りました。 それから、おやつの棚を見ました。 リョウ「今日はもう、私に甘くしていい日。あと、隣の席の佐藤さん、これ好きだったな」 小さなチョコ菓子をふたつ買いました。ひとつは自分用。もうひとつは隣の席の同僚用です。 職場に着くと、靴は相変わらずぬれています。気分も晴れ晴れとはしていません。 でも、手には温かいカフェオレとチョコがあります。 更衣室で制服に着替えたあと、リョウさんは隣の席の佐藤さんに声をかけました。 リョウ「佐藤さん、おはようございます。これ、よかったら」 佐藤「え、チョコ? うれしい。どうしたんですか?」 リョウ「いや、今朝もう最悪で。やっと娘を送り出して、玄関開けたら雨で、靴びしょびしょになって、会社の近くで車に水はねられて……さっき横断歩道で泣きそうでした」 佐藤「それは泣きますね……。新学期って、親も大変ですよね。うちも去年、書類で死にそうになりました」 リョウ「やっぱりそうですか。中学校、急に親のタスク増えません?」 佐藤「増えます増えます。しかも子どもは子どもで緊張してるし」 リョウ「そうなんです。娘の話も聞いてあげたいんですけど、こっちも余裕がなくて」 佐藤「リョウさん、今週ずっと大変そうでしたもんね」 その一言で、リョウさんは少しだけ救われた気がしました。 リョウ「大変そうに見えてました?」 佐藤「見えてました。でも、ちゃんとやってるなあって思ってましたよ」 リョウさんは、カフェオレをひと口飲みました。 まだ疲れはあります。雨にぬれた朝がなかったことになったわけでもありません。 でも、「今日はもう全部だめだ」という感じは、少しだけ薄れていました。 リョウ「……朝、コンビニ寄ってよかった」少しの行動で、午後の気分を変えられる このように、行動活性化では、気分を直接変えようとするのではなく、行動を少しだけ変えることで、気分が変わるきっかけを作っていきます。 つらいときに、大きなことはできません。 だから、小さくていいのです。リョウさんの場合も、特別なことをしたわけではありません。 コンビニに寄り、カフェオレと同僚の分のお菓子を買った。朝の不運を、少しだけ言葉にして話した。たったこれだけです。でも、この小さな行動が、次の小さな変化を呼びました。 同僚が話を聞いてくれて、「ちゃんとやってる」と言ってくれましたね。その結果、リョウさんは「私は職場でもうまくいかない」という結論に飛びつかずにすみました。 落ち込んでいるとき、私たちは気分に合った証拠ばかりを集めてしまうのです。 「やっぱり私はだめだ」「誰も助けてくれない」「私ばっかり大変」「職場でもうまくいかない」こんなふうです。 しかし、少し行動を変えると、別の証拠が入ってくることがあります。 「話したら、聞いてくれる人がいた」「助けを借りてもよかった」「今日は最悪だったけど、全部が最悪ではなかった」「少しだけ立て直せた」 これが、行動活性化の効果なのです。 行動活性化は、「気持ちを変えてから行動する」のではなく、「気持ちを抱えたまま、行動をほんの少し変えてみる」方法です。無理に前向きになる必要はありません。 リョウさんの雨の朝は、誰にでも起こりうる一日です。ADHD特性を抱えているからこそよりつらい新学期の忙しさも、水をはねられたことは変えられません。 でも、その日の後半をどう過ごすかには、少しだけ選択肢があります。落ち込んだ日こそ、気分と同じ方向に流されすぎない。ほんの少しだけ、気分と違う行動を選んでみる。 行動活性化でこの不安定な季節を乗り切りましょう。 ◇ このコラムでご紹介した認知行動療法についてもっと知りたい方は「もしかして、私、大人のADHD? 認知行動療法で『生きづらさ』を解決する」(光文社新書、2018年)もどうぞ。<臨床心理士・中島美鈴> 1978年生まれ、福岡在住の臨床心理士。専門は認知行動療法。肥前精神医療センター、東京大学大学院総合文化研究科、福岡大学人文学部、福岡県職員相談室などを経て、現在は九州大学大学院人間環境学府にて成人ADHDの集団認知行動療法の研究に携わる。






