柳沼広幸印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする

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剣道が得意な少年だった。宮城県石巻市桃生(ものう)町の農家に生まれた西條勝利さん(98)は、桃生国民学校高等科2年(今の中学2年)の時、国が募集する満蒙開拓青少年義勇軍に参加した。 三男だからいずれは実家を出る。「剣道で鍛えた忍耐力、闘魂がある」。旧満州(中国東北部)の広大な農地にあこがれ、開拓農家になる夢を抱いた。母の背で亡くなった妹、最期に牛乳求めた弟 そしてすれ違った父母密航船で暁の決死行、樺太からの脱出 12歳でかかわった戦後処理片手に鍬、片手に銃の「土の戦士」 青少年義勇軍は、一般の農業移民と違い、現地で3年訓練し、開拓団に移行する。「片手に鍬(くわ)、片手に銃」で農業と軍事の訓練をし「土の戦士」とも呼ばれた。 義勇軍の開拓団はソ連(当時)との国境近くに配備された。普段は農業、いざというときは武器を取り、国境警備にあたるねらいがあった。 1942年3月、西條さんは宮城県各地から集まった約220人の仲間と共に、満蒙開拓を推進する加藤完治氏が所長の内原訓練所(茨城県)で基礎を学んだ。5月に満州に渡り、北部の嫩江県の柏根(ぱいこん)訓練所に入所した。消灯ラッパで涙する「屯墾病」ホームシック 「大変な所に来てしまった……」。消灯ラッパで就寝の時間になると、あちこちから泣き声が聞こえてきた。西條さんも親兄弟を思い出し、涙を流した。「屯墾(とんこん)病」と言われるホームシック。そんな生活の中で次第に仲間と打ち解けていった。 冬は極寒だが、春になると辺り一面に花が咲く。北海道の原生花園のような美しい景色。小高い丘でドラム缶の風呂を沸かした。花畑を見下ろしながら入る風呂は格別だった。遮るものがない地平線に夕日が沈む光景もすばらしかった。 だが、平穏な日々は続かなかった。太平洋戦争は悪化していき、満州の関東軍はひそかに南方に転進していた。兵士の不足を補うため、青少年義勇軍も徴用された。 西條さんは44年11月、仲間90人と満州第782部隊(関東軍野戦貨物廠(しょう))に軍属として派遣された。ハルビン近くの阿城で、食料など大量の物資を保管する倉庫群の警備にあたった。「階級章のない少年兵だった」ソ連軍侵攻で中隊長が訓示「倉庫と運命を共にする」 正式な軍人ではないが銃を持って歩哨に立った。雪の中、倉庫の周りを見回るのはつらかった。 終戦前の45年8月9日、ソ…この記事は有料記事です。残り920文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする