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太平洋戦争が終わる前日、大阪空襲の最後の爆撃が、JR京橋駅(大阪市)であった。近くの武器工場を狙ったとされる爆撃の「流れ弾」によって、200人以上が命を失った。記憶を風化させまいと、ある住職が毎月始めた祈りの輪が、少しずつ広がっている。 空襲から81年となる14日、京橋駅で慰霊祭があった。遺族や地元住民、学生らが祈りを捧げ、今年は初めて横山英幸市長も式辞を寄せた。木村均・城東区副区長が名代として追悼の言葉を述べた。 大阪大空襲は1945年3月に始まった。8回の爆撃の最後の標的が、8月14日の京橋駅付近だった。慰霊碑の説明文などによると、米軍のB29爆撃機は約1キロ離れた大阪砲兵工廠(こうしょう)を狙って1トン爆弾を落とし、数発のうち1発が駅舎に落ちた。 名前がわかるだけでも犠牲者は200人以上で、身元不明者を含めると500~600人が亡くなったと言われる。 日蓮宗「妙見閣寺」(大阪市旭区)は55年から毎年、京橋駅空襲の慰霊祭を担ってきた。建立したばかりの当時、「犠牲者の慰霊をしてほしい」と駅側から頼まれたのがきっかけだった。 ただ慰霊祭は年に1度。中学のときに寺に弟子入りし、慰霊祭を手伝ってきた小土井(こどい)祥博さん(45)には、記憶の風化が見てとれた。語り部の多くは亡くなり、参列する遺族は年々減っていく。地元住民らでつくる慰霊祭の「世話人会」も高齢化が進んでいた。 先代住職のあとを3年前に継ぎ、慰霊のありようを考えた。「歴史を学びなさい」と諭した先代の思い。語り部から受け取った教訓。それらを守っていくには、もっと多くの人の祈りの力が必要だ。せめて、自分が手をあわせる機会を増やそう――。 月2回、朝7時半から駅近くの慰霊碑の前でお経を上げ、花を入れ替える「月参り」を始めた。 最初は1人だったが、その姿…この記事は有料記事です。残り473文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

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この記事を書いた人宮坂奈津ネットワーク報道本部専門・関心分野民主主義、北欧関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする