ストーリー武田肇印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする

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6日朝、広島市の波田(はだ)スエ子さん(89)は自宅の居間の椅子に座り、テレビで平和記念式典の様子を見守った。 「幸せは怖い」 8歳だったあの日以降、ずっとそう思いながら戦後を生きてきた。楽しくて夢のようだった夜の翌朝、宝物だった家族をすべて失った。 太平洋戦争末期、スエ子さんは両親と3人の姉に囲まれて、広島市舟入町(現・中区)で暮らしていた。 1945年8月5日。その4カ月前から島根県境に近い寺に集団疎開していたスエ子さんと2歳上の姉の富士子さんを、母ホタカさんが迎えに来た。 スエ子さんは、母の手枕がないと眠れないほどの甘えん坊だった。疎開が始まるとき泣いて別れを嫌がった我が子に、母は「いい子にしていたら迎えに行ってあげる」と約束していた。その言葉通り、連れ帰ってくれたのだった。 夜に自宅へ帰り着くと、母がそうめんを作ってくれた。つゆを入れた細長いガラスコップには、小さなエビが浮いていた。「ずっとこの時間が続く」と思っていたが 空には満天の星が輝いていた。4姉妹はベランダで流れ星を探し、「もみじ」を二部合唱して大はしゃぎだった。4カ月ぶりの母の手枕。父との間に挟まれ、川の字になって眠った。 「ずっとこの時間が続くと思っていた」 翌朝、父は仕事へ、母も用事で出かけた。長女の久子さんがほうろく鍋でかぼちゃと大豆をいり、スエ子さんたちは朝食を待っていた。 そのときだった。 まばゆい閃光(せんこう)が走り、体がはじけ飛ぶような衝撃に襲われた。 「内臓が穴という穴から飛び…この記事は有料記事です。残り981文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人武田肇広島総局員専門・関心分野原爆・平和、朝鮮半島、鉄道関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする