1945年8月の広島、長崎への原爆投下では、3万8千人以上の子どもが同年末までに亡くなりました。子どもたちは被爆の瞬間までどのように生きたのでしょうか。国際情勢が緊迫する中、一人ひとりの短い人生を通して、核兵器について考えます。

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子どもの説明と写真は、遺族、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館、学校法人純心女子学園(長崎市)、旧制長崎県立瓊浦中学校第25回生同窓会(同)からの提供と取材による。年齢、学年は死亡当時。一部の写真は、遺族の同意と早稲田大理工学術院の石川博教授の協力を得た上で、石川研究室が開発した人工知能(AI)技術と、取材で得た遺族の色の記憶を用い、核兵器の非人道性を伝えるためにカラー化した。見知らぬ男性救い、13歳で逝った姉 「生きた証」60年後に戻った「行って参ります」。元気に家を出た13歳の姉は、二度と帰って来なかった。60年後、見知らぬ男性が妹を訪ね、姉の「生きた証」を差し出した。未来を信じて12歳で逝った娘 欲したミカン 母は一生食べなかった「今日は大へんよい日でした」。明るくて家族の人気者だった12歳の妹は、亡くなる前日の日記にそう書きのこした。「目の前に爆弾が落ちた」優しい兄の死 母の思い継ぎ 最後の弔いへ8月6日の朝、「ずる休みはだめ」と母に送り出された岩崎全孝さん(当時13)は帰らなかった。母は亡くなるまで「私が殺した」と悔やみ続け、その思いは娘へ受け継がれた。山を越え届けたスイカ 「おいしい」とほほえんだ姉の遺体を焼いた夜南部光代さん(15歳)は爆心地から近距離で被爆、無傷だったが避難先で衰弱。「スイカが食べたい」と話した。光代さんのために弟は遠くの農家を目指した。「頭痛がする」と訴えた兄 「甘えるな」と登校させた父親の深い後悔跡継ぎとして期待していた息子の澄さんを無理に学校へ行かせたのは間違いだった。その日を境に姿を消したわが子。連日探した父が手に入れたものとは。虫取り仲間、ガキ大将… 期末試験を最後に、みんな会えなくなった一人ひとりの顔写真が収められた冊子を手に取ると、あのころがよみがえる。時が止まったままの級友たち。94歳になった男性はいまも思いを寄せる。「もう教壇には立てない」 一度は辞職願 奮起の校長が残した「宝」213人が犠牲となった長崎純心高等女学校。原爆投下11年後に発刊された「殉難の記録」は代々受け継がれ、いまの生徒たちに平和の尊さを伝える。原爆のこと知っていますか 81年前の8月6日と9日に起きたこと【そもそも解説】核兵器の非人道性とは 爆発の瞬間で終わらぬ苦しみ