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「死にたいか」「漢江に流してやろうか」――。拷問と先の見えない拘束に、事実とは異なる陳述書を書かざるをえなくなり、〝スパイ〟の烙印(らくいん)を押された……。K-POPや韓流ドラマが世界を席巻する韓国ですが、つい40年ほど前まで、軍人出身の大統領による独裁政権の国でした。日本に暮らす在日韓国人のなかにも、ルーツの母国に留学中、身に覚えのない罪で「北朝鮮の工作員」とされた青年たちがいました。いま堺市で暮らす金丙鎭(キムビョンジン)さん(71)は、そんな青年の一人。26年前から取材を続ける記者が、金さんのこれまでと、今後も続く「闘い」をつづります。「43年ぶりに…」「中野さん、43年ぶりに冤罪(えんざい)を晴らしました」今年5月末、旧知の金さんからそんな連絡がメッセージアプリで届きました。「冤罪」という言葉に、金さんが長年、心に受けてきた苦しみの深さを想像しました。私が初めて金さんを取材したのは、四半世紀余り前のことです。2000年4月、私は大阪・心斎橋の路上で、金さんを待っていました。目の前の韓国総領事館から出てきた金さんは、発給されたばかりの真新しい旅券を手に笑顔で語りました。「韓国の民主化が進んだ結果だと思いますが、あまりにも長い年月がかかり、複雑な気持ちです。支えてくれた地域の人々の熱意のおかげです」金さんの「旅券発給無期限停止」はこの日、解除されました。でもそれは、金さんの長い闘いの始まりに過ぎなかったのです。突然の連行、密室での拷問神戸市出身の金さんは、ソウルの延世大大学院で学んでいた1983年7月、韓国軍の情報機関、保安司令部(保安司(ポアンサ))に突然連行されました。保安司トップの軍保安司令官を務めた経歴もある全斗煥(チョンドゥファン)大統領による軍事政権の時代です。金さんが後に世に出した告発本「保安司」には、当時の取り調べの様子が記されています。「VIP室」と呼ばれる密室で椅子に縛られ、電気や水で拷問。「死にたいか」「漢江(ハンガン)に流してやろうか」などと絶え間ない脅迫。軍人らの暴力に、思わず息をのみます。自宅には済州島出身の妻と生後2カ月半の長男がいました。妻と長男には「女性取調官がずっと付き添っている」と聞かされました。つまり、自宅で軟禁され、監視されていたのです。先の見えない拘束が続き、金さんは当局の意に沿った陳述書を書かされます。「北朝鮮の工作員」に仕立てられ、国家保安法違反で送検されました。1983年11月、金さんは「公訴保留(起訴猶予)」となりました。そして、監察対象者として、保安司で通訳として働くことを強いられます。韓国の国家保安法は、公訴保留となった人を、場合によっては再拘束できると定めています。金さんは「強制勤務」を受け入れるしかありませんでした。保安司で通訳として働くなかで、金さんは自分と同じように連行された在日出身の青年が過酷な取り調べを受ける様子を目の当たりにしたといいます。大阪に逃れて2年後、保安司での勤務を終えた金さんは、妻子を連れて大阪へ逃れました。それまで縁のなかった堺市の泉北ニュータウンの団地でひっそりと暮らしました。1988年、日韓双方で自著「保安司」を出版しました。韓国軍事政権下の内情を告発する本です。保安司から「軍事機密保護法違反」として出頭を命じる文書が届きましたが、応じませんでした。韓国は1987年に民主化を果たしたものの、全斗煥の盟友である軍人出身の盧泰愚(ノテウ)氏が大統領を務めていました。その後の1993年、文民出身の金泳三(キムヨンサム)政権が生まれます。金さんは1995年頃、駐大阪韓国総領事館で旅券の更新を申請しました。このときは認められず、無期限の発給停止を伝えられました。地域との出会いその頃、妻の康英美(カンヨンミ)さんが地元の生協にかけた電話が、地域とつながる転機になります。届いたこたつ布団の色が注文と違う、と苦情の電話をかけたつもりが、話が弾み、地域で韓国語を教える場をつくることを提案されたのです。1996年秋、「ふれあい共生塾・ハングル講座」が始まりました。講師は金さんと康さん夫妻。生徒募集のビラには「互いに理解し、仲良くするための講座です。教える側も学ぶ人も、同じ地域に住む住人同士です」と記しました。母国は民主化したはずなのに、行きたくても行けない。そんな金さんの窮状を知った受講生らは、金さんの「渡航禁止解除」を求めて約1500人分の署名を集めました。2000年、韓国の大統領宛てに嘆願書を送り、願いを託しました。当時の大統領は民主化運動の象徴的な人物だった金大中(キムデジュン)氏でした。この嘆願書が功を奏したのか、金さんの旅券発給は認められました。私が初めて金さんを取材したのは、このときです。14年ぶりの訪韓には、夫妻を支えた生協の代表が同行しました。謝罪と補償を求めて金さんはその後も何度も韓国を訪れ、自身が受けた「国家暴力」への謝罪と補償を求めてきました。軍事政権下の人権侵害事件を調べる独立機関「真実と和解のための過去事委員会」は、韓国政府に対し、金さんに謝罪して「被害と名誉を回復する措置」をとるよう勧告しました。金さんの不安定な立場の根底には、1983年に受けた「公訴保留」処分がありました。無実が認められて釈放されたわけではなく、法的には再拘束もされうる立場にあったからです。金さんは昨年8月、代理人の崔晸圭(チェジョンギュ)弁護士と韓国大検察庁(最高検)を訪れ、公訴保留の取り消しを求める請願書を出しました。今年5月に検察に出した書面では「私と家族は現在に至るまで緊張を解くことなく生きてきました。これらすべての法的な始まりは、保安司の要求によって検事が下した公訴保留処分にあったことを申し述べます」と訴えました。数週間後、崔弁護士から金さんのもとに吉報が届きました。ソウル中央地検が金さんに対し、43年ぶりに「嫌疑なし」の処分を出したのです。検察の通知によると、裁判で有罪になった人は裁判をやり直す「再審」を請求できますが、金さんのような「公訴保留」を受けた人には救済手続きがありません。このため、検察官が職権で事件を再検討しました。その結果、送検時に共犯とされた人物が韓国での再審ですでに無罪となっていることなどを踏まえ、「嫌疑なし」と結論づけました。韓国の検察がこうした処分を出したのは初めてのことです。ようやく「冤罪が晴れた」という金さん。取材で会いに行った私に、こう語りました。「無実は当然と思いながらも、ずっと圧迫感を受けてきました。日がたつにつれて、じわりじわりと緊張がほどけた感慨がわいています」闘いは続く金さんを苦しめた保安司は、民主化後も名前を変えて存続していました。保安司を引き継いだ国軍防諜(ぼうちょう)司令部(防諜司(パンチョプサ))は、2024年12月に尹錫悦(ユンソンニョル)前大統領が出した「非常戒厳」に深く関与したとして、韓国国内で非難の声が高まりました。韓国国防省は今年6月、防諜司の解体と再編を発表しました。一方で、金さんをはじめ、1970~1980年代に母国に留学した多くの在日青年を「北のスパイ」にでっち上げることにつながった国家保安法は、残ったままです。朝鮮半島の南北分断が続く限り、存続するだろうと指摘されます。金さんはいまも、韓国政府を相手に、国家賠償を求める裁判を続けています。金さんの闘いはこれからも続きます。ニュースが身近になるメディア「withnews」https://www.asahi.com/withnewsTikTokアカウント:https://www.tiktok.com/@withnewsYouTubeアカウント:https://www.youtube.com/@withnewschannel