2026年6月30日 6時00分清水謙司印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

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朝日新聞京都総局は6月15日、京都市中京区の京都朝日ビル内から近くの烏丸通り沿いに移転した。このほど、ビルが完成した1972年当時に撮影したポジフィルムが見つかった。写真からは、大きな建物が少なく、町家のような家屋が立ち並ぶ街の様子が伝わってくる。厳選した写真とビルが面する御池通(おいけどおり)の「今昔物語」で、古都の移ろいをお伝えする。 御池通は、京都市中心部を東西に結ぶ主要幹線道路。写真でもその広さが実感できる。市が「シンボル」と位置づける道は、名前や大きさ、景色を変えながら、千年の都とともに歴史を重ねている。 「まるたけえびすに おしおいけ(丸竹夷二押御池)」。御池通は京都の通り名を覚えられる有名なわらべ歌にも登場する。 碁盤の目のように区画された平安京が造営されてからは、三条坊門小路という道で知られた。御池通と呼ばれるようになったのは、江戸時代になってからという。幕末の古地図でも確認できる。 名前の由来は諸説ある。平安京とともに造られた天皇のための広い禁苑「神泉苑(しんせんえん)」。その前を通るから御池通、という説がよく知られている。 神泉苑は現在は寺院。境内は国の史跡になっている。高名な歴史学者・故林屋辰三郎氏は著書で「京都は、神泉苑からうまれた」「神泉苑は、この御池通という名の由来をなす苑池」と記した。 京都の歴史も物語る御池通の幅員は50メートル(鴨川西岸~堀川通)。京都市役所やホテルなどが整然と並び、歩道も広々としている。しかし、いまのような規模になったのは戦後以降のことだ。 京都市によると、戦前までは10メートルに満たなかったという。第2次世界大戦末期の1945年、空襲に備えるため、かいわいの民家の疎開がおこなわれた。 疎開跡地は終戦後、都市計画道路として活用されることになった。53年に工事が済んだといい、幅員は大幅に広がった。 70年前(56年)には、日本三大祭りの一つ、祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行のコースになった。観客増加のため、広くなった御池通が選ばれたという。同年の山鉾巡行を伝える朝日新聞には「広い御池通に移ったため、例年より約倍の人がのんびりとホコの見物が出来た」と紹介されている。 京都朝日ビルの完成を特集した朝日新聞紙面(72年3月30日付)では「テラスが設けられ、ここで祇園祭や時代祭の行列などの取材ができる」と伝えている。洛中では7月いっぱい、祇園祭の神事や行事が続く。御池通は今年も「動く美術館」と呼ばれる山鉾巡行で華やぐ。 平成に入っても、御池通は進化を続けた。97年、足元には市営地下鉄東西線(醍醐・二条間)や地下街(ゼスト御池)が開業。同じ頃、市の整備事業「御池通シンボルロード」も始まった。御池通は文字どおり、数ある京都の道の中で、象徴的な存在となり、今に至っている。有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません