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語る 人生の贈りもの フォークシンガー・小室等さん(1) 《週に何日か、散歩に行く。もともと体を動かすのは好きではないが、何か運動をしたほうがいいと家族に勧められて》 朝、川沿いを歩いています。コーヒーショップのタリーズに行くのが定番です。日によって違いますが、エスプレッソを頼むことが多いですね。それで持って行った本を読む。 その川沿いに市場があるんです。魚を切って売ってくれるので、そこで買ってくることもありますね。あんまり高くないんですよ。もう常連ですね。 《認知症クリニックに通っていることを2025年の雑誌コラムで明らかにした。それでも月に2回ほどライブで歌っている。親しいミュージシャンや娘で歌手のこむろゆいさんと組んで演奏している》 認知症とは日々つきあっています。認知症である自分と向き合っています。 月に1度、病院に行くんですが、先生がいろんな話をしてくださるんで、楽しいですね。「小室さん、きょうはどんなことをしてらっしゃいましたか」というようなことを質問してくださる。僕のあんばいについて先生と問答をしています。フォークシンガーの小室等さんが半生を語る「語る 人生の贈りもの」。全4回連載の1回目です。(2026年6月に掲載した記事を再構成して配信します)【第2回はこちら】大学で洋楽に熱中、そして決意「僕らの歌を作る」 小室等さんの青春 ライブでの不自由ですか。それはないんじゃないかなあ。僕にとってはずっと、生活の一部ですからね。次の曲はこれ、と周りが教えてくれます。 《ギターを持ち、初めて人前で歌ったのが高校時代。そのときから数えて、音楽活動は65年になった》 こんなに長く、自分が仲間たちと一緒に音楽を続けることになるとは、ゆめゆめ思わなかったですね。自分が何をやってきたのか、よく覚えていないところもありますが、まあ、とにかく多くの人に出会ってきました。僕の方から出会いを求めていったのだと思います。実家は電気工事店 《1943年、東京都葛飾区で生まれ、すぐに荒川区の尾久に移った》 尾久というところは、地方から東京に出てきた人がたくさんすんでいたんです。おやじは群馬の前橋の生まれで、上京して自分で電気工事店をしていました。前橋から連れてきた職人を何人も使っていて、仕事は多かったんじゃないかな。 小学生だった僕をスクーターに乗せたり、トラックの荷台に乗せたりして、けっこういろんなところに連れて行ってくれたんですよ。夏目漱石が出入りしていた店だとか、太宰治が入水したところとか。ウィーン少年合唱団が日本に来たときのコンサートにも行きました。 おやじの仕事について回って、(戦犯が収容されていた)巣鴨プリズンに入ったこともあります。あれは何の工事だったのかな。「小学生がこんなところに来ちゃだめだ」と叱られました。 いいおやじかと聞かれたら、どうなんだろう。近所に(料理屋、芸者の置屋、待合が集まる)尾久三業というところがあって、そこに入り浸ってましたからね。芸者さんと遊んでたんじゃないでしょうか。店がコムロ電気工業だから「あら、コーさん」とか言われて。 おふくろがよく職人たちの前で言ってました。「うちの亭主はまた尾久三業に行って、帰ってきやしない。どうにもならない」と。なんで僕のうちはそういう境遇なんだろう、と思ってましたね。 《中学校はミッション系の聖学院に入学する》 上の兄は野球部の投手だったんですが、僕はスポーツは全然だめ。体育の時間にソフトボールやるでしょ。ボールが僕の方に飛んでこなければどんなにいいかと思ってました。それでも飛んでくる。そうすると、クラスメートの誰かが僕の前に来てキャッチするんです。僕にまかせたら取り損なうと思ったんでしょう。美しかった母が縫ってくれた制服 《母親は近所でも評判の美人だった》 おふくろは俳優の水の江瀧子さんのファンで、浅草のレビューなんかも見に行っていました。自分も近所の写真館にひとりで行って、写真を撮ってくるんですよ。それこそ水の江さんみたいな感じで。 この写真、美しいでしょう。うちのおふくろです。それから銀座の英語学校にも通ってた。英語なんかしゃべれないんだけど、しゃべれるふりをする。そういう人でした。 僕が高校に入ったとき、制服を自分で裁縫して、つくってくれたんです。私立の高校だったんですが、うちはどちらかというと貧乏で、お金を節約するためだったんでしょう。でもその制服には襟がなくて、クラスメートからは「エリナシ」ってあだ名をつけられました。恥ずかしかったですね。 夫婦仲はあんまりよくなかったですね。おやじはちょっとお金が入ると、芸者遊びをしちゃうような人だったので。おふくろは怒っていたと思います。 《20歳のころ、母親が家を出た。住み込みの職人だった18歳年下の男性と一緒に》 まあ駆け落ちしたようなものですね。相手の職人はシゲちゃんといって、戦争孤児だった。疎開しているときに深川の家が空襲にあって、燃えちゃった。それでうちに来たんですが、よく働く人だった。シゲちゃんは僕の上の兄の少し年上くらいで、僕らは言ってみれば兄弟のように仲良くしてたんです。だからショックでしたね。でもおやじがあんなふうだったから、しょうがないなという感じもありました。 駆け落ちといっても、おふくろの家とはずっと行き来がありました。僕がギターを弾いて、おふくろが歌ったりしてね。シゲちゃんも僕の娘のことを孫のようにかわいがってくれて。シゲちゃんはおふくろをみとってくれて、後を追うように亡くなりました。高校時代の合唱団で、音楽のいろはを学ぶ 《聖学院高校では男声合唱団に入る。ここで顧問の先生から音楽のいろはを教わる》 学校がミッション系だったこともあり、おもに黒人霊歌を歌っていました。指導してくれたのが菅野(かん・の)真子(まさ・こ)先生です。僕らに口癖のように「まったくおまえたちは、いつまでたってもうまくならない」と怒っていらした。でもその口ぶりが本当にやさしいんですよ。先生に教わるのが楽しくてしかたがなかった。僕らは始終、先生のおうちに押しかけていきました。大きめのピアノがあり、弾いてくださいました。 (米フォークグループの)キングストン・トリオの音楽に出会い、おやじにギターを買ってもらったのもこのころでした。輸入盤のレコードを聴いてコピーするんです。CとFとGのコードを使えば、けっこういろんな曲が演奏できた。ある曲で、ここのコードは「CからF」だろうと思うと、どうも違う。菅野先生にレコードを聴いてもらうと、「ばかだね、ここはアーモール(Aマイナー)というコードがあるでしょう」。そんなことがワクワクするような出来事でした。 菅野先生とはその後もおつきあいがありました。先生の教え子がトーンチャイムを演奏する会が年に2回あり、僕は司会をさせていただきました。先生がいまもご存命であれば、と思います。 《合唱団で一緒だった小林雄二さんとグループを組み、演奏を始めたのも高校時代だ》 小林の家が足立区の北千住で写真館をやっていたので、そこのスタジオにクラスメートたちを集めて演奏するんです。曲はキングストン・トリオとかですね。後に「六文銭」を一緒にやることになる岩沢幸矢(さつ・や)も、そこにふらっと現れたのかな。冷房なんかないので、夏には大きな氷を置いて、演奏してました。 ギター弾いたら女の子にもてたかって? いや全然。そういうことはなかったなあ。【第2回はこちら】大学で洋楽に熱中、そして決意「僕らの歌を作る」 小室等さんの青春■小室等さん略歴 こむろ・ひとし 1943年、東京都生まれ。多摩美術大学卒業。68年に「六文銭」を結成し、のちにソロで活動。75年にフォーライフレコードを設立。代表曲に「雨が空から降れば」「お早うの朝」など。著書に「人生を肯定するもの、それが音楽」など。