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語る 人生の贈りもの フォークシンガー・小室等さん(3) 《1968年にフォークグループ「六文銭」を結成した。PPMフォロワーズ以来一緒だった小林雄二さんらとともに》 四谷にあった文化放送の近くでした。相棒の小林と連れだって歩いているときに、「六文銭」って飲み屋の看板を見付けたんですよ。で、「小林、これいいんじゃないの。面白いんじゃないの」と。僕らは、英語ではなく、日本語でうたうグループをつくろうとしていた。グループ名も漢字がいいと思っていました。小林は「月と六ペンス」のサマセット・モームが好きだったし。 《高校生向けの読書新聞「ハイスクール・ライフ」から音楽の欄をまかせられる。タイトルは「六文銭挽歌集」》 編集長の松岡正剛さんがいろんな人たちから詞を集めてきてくれて、それに僕らが曲をつけて新聞に載せるんです。1回目は劇作家・別役実さんの「ヒゲのはえたスパイ」。のちに「スパイものがたり」というミュージカルにつながる歌です。7回目は詩人・大岡信さんの「わたしは月にはいかないだろう」でした。僕が新幹線のホームに行って大岡さんをつかまえて、できあがった詞をいただいたんです。 アポロ11号が月に行ったときに大岡さんは〈わたしは月にはいかないだろう/わたしは領土をもたないだろう〉と書いた。すごいなと思います。メッセージでした。 ハイスクール・ライフを通じて、いろんな詩人や劇作家とつながることができました。入沢康夫さんも、唐十郎さんも。フォークシンガーの小室等さんが半生を語る「語る 人生の贈りもの」。全4回連載の3回目です。(2026年6月に掲載した記事を再構成して配信します)【初回はこちら】フォークシンガー小室等さんの日常 認知症と向き合い、ライブで歌う【2回目はこちら】大学で洋楽に熱中、そして決意「僕らの歌を作る」 小室等さんの青春【4回目はこちら】谷川俊太郎さんとの思い出も胸に 小室等さん「あと50年歌いたい」 《このころ松岡さんが作詞作曲した「比叡おろし」は、いまもライブでよく歌う》 あるとき松岡さんがこんな歌ができたと持ってきてくれて。〈うちは比叡おろしですねん/あんさんの胸を雪にしてしまいますえ〉。いやあ、いい歌だなと思いました。1番しかなかったので、2、3番もつくってよ、と僕が言ったんだと思います。いまもリクエストの多い曲です。 《1970年、劇作家の別役実さんが手がけたミュージカル「スパイものがたり」で、劇中の作曲と演奏をまかされた》 そこから生まれたのが、別役さん作詞の「雨が空から降れば」です。劇中で歌った27曲のうちの1曲でしたが、他とはちょっと違うものでした。この曲は動いていくんだろうな、という感じがしたんですね。 この仕事で、はじめて及川恒平に出会いました。別役さんのもとで、役者や音楽をやっていた男です。これがきっかけで恒平を僕が誘って、六文銭のメンバーになってもらいました。ゲンシバクダンの歌 《その後も六文銭は別役さんの詞を曲にする。「ゲンシバクダンの歌」は、新宿の紀伊国屋書店や池袋の西武百貨店などが爆弾で吹っ飛ばされる内容だ》 この曲は放送禁止になりました。むやみに公共物を壊してはならない、というのが理由だったようです。それでその公共物なるものに問い合わせたら、あるところから「うちは構いません。でもうちが構わないと言ったことは他には言わないでください」と言われました。おかしな話ですよね。「出発の歌」の誕生 《71年、及川恒平作詞、小室等作曲の「出発(たび・だち)の歌」をひっさげ、音楽祭に出演する。グループ名は「上條恒彦+六文銭」》 上條さんの歌を最初に聞いたのは、銀座のエポックというライブハウスでした。「プアボーイ」というアメリカの歌を歌っていたんですが、すごい歌手だなと驚きました。そうこうするうちに、上條さんが僕を訪ねてきて「俺にも曲を書いてほしい」と。それでつきあいが始まるんです。 「出発の歌」は、合歓(ね・む)ポピュラーフェスティバルという作曲のコンテストで演奏しました。どうせ選ばれるのは俺たちじゃないしさ、と帰り支度をしていたら「何やってるんだ、君たちがグランプリだ」と言われて。世界歌謡祭でもグランプリになり、それからはあちこちのテレビ局からお呼びがかかるようになりました。「だれかが風の中」がヒット 《テレビドラマの楽曲も数多く作曲した。1972年から放送された「木枯し紋次郎」(フジテレビ)の主題歌「だれかが風の中で」は上條恒彦さんが歌い、ヒットした》 映画監督の市川崑(こん)さんが手がけたテレビドラマでした。どんな曲を書けばいいのか、お尋ねしたんですよ。そしたら崑さんは「わしは音楽はよく分からん」と言いながらも、「例えばあの曲は知っているか」と次々に曲名を言うんです。「コンドルは飛んでいく」や、はしだのりひことクライマックスの「花嫁」、映画音楽の「雨にぬれても」。そして最後は「あとは勝手にやってくれたまえ」と。 作詞は崑さんの妻で脚本家の和田夏十(なっと)さん。いまもライブでよく歌います。〈どこかでだれかがきっと待っていてくれる〉というけど、たぶん誰も待ってやしない。でも待っていてほしい。待っていてくれると信じたい。そういう思いが僕の中にきっとあるんだと思います。 《76年のTBS「高原へいらっしゃい」では、詩人の谷川俊太郎さんと二人三脚で、いくつもの歌をつくった。放送前のドラマを谷川さんが見て、感想のような詩を書く。それに曲をつけ、後の回の挿入歌にした》 僕は俊太郎さんの詩ができあがってくるのを、ただひたすら、楽しみにしていました。俊太郎さんが自分で持ってきてくれることもあったんですよ。運転が好きな人でしたから、(東京の)阿佐ケ谷から僕の家のある久我山まで自分の車で届けてくださる。 俊太郎さんに詩を書いてもらうのは、プロデューサーの高橋一郎さんの希望でした。でも、そんなやり方をするわけですから、一郎さんも乱暴な人でしたよね。一郎さんとはそれからも随所にいろんな仕事をしました。ドラマに真摯(しん・し)に向き合う人でした。ジョンやポールを追いかけて……フォーライフレコート設立 《1975年に吉田拓郎さん、井上陽水さん、泉谷しげるさんと共に4人でレコード会社「フォーライフレコード」を設立した。アーティストが自ら立ち上げた新会社。レコード業界に反旗を翻したといわれた》 ビートルズが「アップル・レコード」をつくったのが、大きな刺激になりました。面白がって、ジョンやポールを追っかけようとしたんだと思います。 まず拓郎さん、陽水さんに声をかけました。そしたら「泉谷がいないと話になんないな」ってことになったんです。社長は無記名投票で選んだんですが、4人とも小室等。社長になるつもりなんてなかったんですが、こうしないと収拾がつかないと思って。 レコード業界からは、いろいろ圧力もかかったようです。はじめはレコードをプレスするところが見つからなくて、韓国の会社に頼んでみようかとも考えました。 《77年に社長を拓郎さんに引き継ぐ。そのころ始めたのが、東京23区の小さな会場を回るコンサートツアーだった》 東京は生まれ育ったところですからね。23区の各所で自分のイベントをやりたかった。その場所、その場所でミュージシャンたちが来てくれて、一緒にやってもらえたらいいな、という思いでした。陽水さん、拓郎さん、三上寛(かん)さんや矢野顕子さんも来てくれました。 会場は、区民会館とか、小さなところばかりです。区の施設だと、午後9時には閉まるので必ず出てください、なんて言われることもありました。だから急いで片付けをして撤収するのですが、それはそれで面白かったですね。 あるときは喫茶店が会場で、電車の踏切のすぐそばでした。電車が通るたびにチンチンと聞こえてきて、なぎら健壱さんは、そういうなかで演奏するのを楽しんでいました。僕もコンサートをやるたびに、その場所が好きになりました。【初回はこちら】フォークシンガー小室等さんの日常 認知症と向き合い、ライブで歌う【2回目はこちら】大学で洋楽に熱中、そして決意「僕らの歌を作る」 小室等さんの青春【4回目はこちら】谷川俊太郎さんとの思い出も胸に 小室等さん「あと50年歌いたい」■小室等さん略歴 こむろ・ひとし 1943年、東京都生まれ。多摩美術大学卒業。68年に「六文銭」を結成し、のちにソロで活動。75年にフォーライフレコードを設立。代表曲に「雨が空から降れば」「お早うの朝」など。著書に「人生を肯定するもの、それが音楽」など。






