信長貴富「くちびるに歌を」
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その日、私は区役所勤務を終えて渋谷駅近くのステーキハウスにいた。楽譜出版社の編集者H氏との初対面。当時所属していた合唱団の先輩からの紹介で面会がかなった。転職先を紹介してもらうためである。 30年ほど前、私は東京の世田谷区役所に勤務しながら作曲を続けていたが、このまま一生公務員として生きていくべきか悩んでいた。作曲で食べていけるほど甘くないことは知っていた。しかし音楽に近い場所で働きたい――。 そんな折、出版用に楽譜の版下を作る「楽譜浄書」という仕事の存在を知る。浄書の業界も、昔ながらのペンとハンコを用いた手書きの時代から、コンピューターへの移行期を迎えていた。自分もちょうどコンピューターでの楽譜作成を始めていたので、デジタル浄書業務を主とする会社をH氏に紹介してもらえないだろうか。これが私の用件だった。 H氏の回答は明快だった…






