2026年6月23日 11時30分平井良和印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

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福井県若狭町で110年前に石室が確認されていた古墳の全形の復元が可能になったため、国の史跡としての指定範囲が8倍以上に広がる。埋葬されたのは古墳時代に若狭を治めた人物とみられ、町は「保存に向けた大きな一歩になる」としている。 この古墳は若狭町南部の山あいにある西塚古墳。大正時代の1916年に鉄道の敷設工事で石室が露出し、銅鏡や武器など多くの副葬品が確認された。昭和になった後の35年、国の史跡となった。 ただ、この時に史跡とされた範囲は石室の周囲など約1467平方メートル。69年の農地整備に伴う範囲確認の発掘調査で、石室は前方後円墳の「後円」にあることが指摘された。さらに平成に入ってからの91年の県の調査では、5世紀後半の築造で墳丘の長さが74メートルになることや、埋葬されたのが若狭国を治めた膳臣(かしわでのおみ)一族の膳臣斑鳩であることなどが推定された。 その後も地中レーダーでの探査などが進み、令和になった2020年以降の若狭町や花園大学の調査で古墳の全形が復元できる状況になったことから、6月19日に国の文化審議会は史跡の範囲を1万2174平方メートルに広げるよう答申した。 西塚古墳は、文化庁が認定する日本遺産の「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群」にも含まれている。被葬者の膳臣斑鳩の一族は天皇の食をつかさどる役割を担ったとされ、若狭地方は「御食国(みけつくに)」とも呼ばれた。 古墳の場所は現在は田んぼになっており、周辺には他にも膳臣一族を埋葬したとみられる複数の古墳があって「脇袋古墳群」と呼ばれている。町歴史文化課の担当者は「若狭の歴史を語る上で欠かせない史跡。指定範囲の広がりで万全な保存体制を整えることができた」と話している。有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人平井良和ネットワーク報道本部次長専門・関心分野地震災害、中国社会、中国残留日本人孤児、気候変動、生物多様性、社会教育関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする