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第1章 手がなくても足がなくても産む病院七誠の生まれる17年前、神奈川の県立病院であるダウン症の女の子が生まれる。出産時にダウン症とその合併症を初めて告げられた母親は「なぜ知らせてくれなかったのか」と問う。 篠岡薫(ささおか・かおる)は今も病院の悪夢をみる。自分は車椅子に乗せられて、会議室の前まできている。その扉が開くことが怖い。 扉は少しずつあいていく。そうすると、暗い室内に明かりがともり、大勢の白衣姿の医師が並んでいる。 そのうちの一人がこう言うのだ。「お子さんは以下の病気があります。 21番のトリソミーによるダウン症。そのダウン症によって、十二指腸閉鎖症、心室中隔欠損、両側水腎症、敗血症」 その宣告をうけて、薫は眼の前が真っ暗になる。 遠くで聞こえる医師の声。薫は必死になってこうたずねる。「でも検査をしていましたよね。このことはわかっていたんですよね。なぜ教えてくれなかったんですか?」「うちの病院は、手がなくても足がなくても、眼がなくても産む病院なんです!」 その医師の一喝を聞くと、はっと眼が覚める。 寝汗をびっしょりかいている。 が、これは夢ではない。 1999年2月15日、長女の一実(かずみ)が生まれた日に実際に起こったことだった。 野口麻衣子の第二子七瀬が、網膜芽細胞腫をもって大阪で生まれる17年前のことである。奇妙な入院 薫が実(みのる)と結婚をしたのは1995年4月。なかなか子供をさずからなかったが、ようやくできた待望の第一子だった。 妊娠がわかったのが近所の産科で1998年の7月のことだった。新横浜の労災病院の産婦人科に月に一度通うようになる。 が、11月10日の診察の際にこんなことを言われる。「紹介状を書きますので、これから紹介する神奈川県立こども医療センター(神奈川こども)にすぐ行ってください」 診察後、婦長がかけよってきて薫に言い聞かせるようにこう言った。「まだ若いんだから、今度行く病院で、いやなことをいわれても、いくらでもやりなおしができるのよ」 薫が今も大切に保管している母子手帳によれば妊娠して20週と4日目のことだった。 薫は不安になり、すぐ勤め先にいた夫の実のところに公衆電話から電話をしている。 翌日には、自宅から車で30分強の神奈川県立こども医療センターに薫はいた。 別所インターチェンジでおりてすぐの場所にある神奈川県立こども医療センターは、当時は建て替え前の古い無機質な建物だった。 薫は待合室に入ったとたん、それまでの労災病院の産科とはまったく違う場所に自分が来たということを知る。 会う子供会う子供、車椅子にのっていたり、何らかの障害をもっているようだった。 この最初の診察の際に薫を担当することになったのが、産科の科長だった山中美智子である。 1984年に山形大学医学部を出た山中は、当時40歳。2018年の野口麻衣子の着床前診断申請の日産婦における判断で非常に重要な役割を果たすことになる産婦人科医だが、今はまだ1998年、薫の話を続けよう。 山中の診断は薫によれば「(胎児は)ちょっと心臓が悪いが、(出産して)盲腸の手術ぐらいの簡単な手術で終わるからたいしたことはない」というものだったという。 ほっとしていると、「でも帰ってはだめです。入院してください」と言われる。 薫にとっては最初の子なので、何が普通なのかがよくわからない。言われるがままに入院することになった。 しかし、入院中、山中はエコーをとり、心音を聴いていたが、特別な検査があったわけではなかった。 そして11月20日に「退院してよい」と言われて退院する。 ちょうど妊娠22週になった日のことだった。十二指腸が塞がり母乳が飲めない 退院後も神奈川こどもに通い山中の診察は続いた。 毎回、ものすごい量のエコーをとる。夫の実がつきそっていったとき、実は思わず、出力されたエコーがつらなっている様をみて、「先生、とぐろをまいてますよ」と言ったほどだった。 しかし、山中の「簡単な手術で大丈夫ですから」という診断に変わりなかったと、実も薫も証言している。 予定日は1999年3月26日だったが、2月14日の夜に出血があった。病院に電話すると、「安静にして寝ていてください」と言われる。が翌日になっても出血が止まらない。薫は不安になり神奈川こどもに「病院に行きます」と電話で告げ向かうことにした。実も午後には病院にくることになった。 出血を訴える薫に、嫌な予感がした山中は急遽腹部を穿刺して羊水をとることにした。そうして確認をすると羊水に血が混じっていた。胎内で何らかの出血があるということだ。「緊急手術をします。帝王切開で子供をとりだします」と薫に告げた。 薫は驚いたが、拒否のしようもない。 分娩室に薫は運ばれ帝王切開が始まる。 分娩台の向こう側にいるのはなぜか山中だけではなかった。見慣れない他の白衣の医師たちが並んでいた。なぜ、こんなに先生がいるんだろう? 切開が始まってすぐに、泣き声が聞こえてきた。 その泣き声を聞いて薫は安心した。 ところが、山中がつれてきたその子は真っ白だった。 生まれてきたばかりの赤ちゃんはこんなに白いの? 山中が薫の手をとって「生まれたよ」と抱かせようとするが、薫はびっくりして手が出せない。抱くことができなかった。 その日の夕刻だったろうか、出産したばかりの薫は夫の実とともに、会議室のような場所につれていかれた。まだ帝王切開の傷を縫合したばかりなので、車椅子での移動である。 会議室には新生児科や遺伝科の医師たちがいた。 そのうちの一人が、生まれてきた子はダウン症で、十二指腸閉鎖症、心室中隔欠損、両側水腎症、敗血症があると言った。 それを聞いて薫は頭が真っ白になってしまった。「でも検査をしていましたよね。このことはわかっていたんですよね。なぜ教えてくれなかったんですか?」「うちの病院は、手がなくても足がなくても、眼がなくても産む病院なんです!」 十二指腸は胃から小腸へとつなぐ最初の臓器で、ここが閉鎖されていると母乳もあたえられない。いずれ手術を……。そんな説明があった。娘の手術を拒否 十二指腸閉鎖の手術は、緊急性を要していた。 夫の実は、十二指腸閉鎖が原因で経口で栄養がとれず亡くなるのなら、それはその子の寿命ではないか、そう思っていた。 薫はその日からおかしくなってしまった。 頭髪が抜け始め、食べ物を食べても戻してしまう。 山中への不信感もひどかった。病院内で山中の顔を見ただけでも吐いてしまった。 個室があてがわれ、看護師が24時間体制で自殺等の自傷行為をしないよう監視することになった。 母乳が出てくるので搾乳して看護師にあずける。冷凍保存するためだ。看護師はなんとか薫を新生児室につれていこうとしたが、薫は「会えない。会いたくない」と繰り返した。 通常は5日で母子ともに退院するところを、2週間個室で病院に留めおかれたのちに薫は退院した。生まれた子供はNICU(新生児集中治療室)で24時間の看護と治療をうけたままだった。 病院は相談員をつけて毎日自宅にいる薫の様子を尋ねるようにした。しかし、薫は相談員が来てもドアを開けなかった。 神奈川県立こども医療センターにはめられたという思いだった。 なぜ、知らせてくれなかったのか! わかっていたのではないか! 病院に関係するものは、すべてが受け入れられなかった。 わが子もだ。医師判断による手術 病院には、夫の実が毎日通い、生まれてきた子に会っていた。 名前は実から一字をとって一実(かずみ)と名付けられていた。 実は毎日会っているうちに、最初は受け入れられなかった我が子がかわいくなってくる。 経口でミルクは飲めないので、高カロリー輸液を動脈に直接いれて、一実は命をしのいでいた。 十二指腸閉鎖をこのまま放っておけば命にかかわる、そう言って何度か病院側は話し合いを両親に求めたが、両親の意志は変わらなかった。「手術をせずにいれば逝ってしまうのであれば、それがその子の寿命なのだ」 そう実は病院側に返し、自分に言い聞かせていた。 手術しろしないの押し問答をくりかえしているうちにあっという間に2カ月がたってしまう。高カロリー輸液による栄養補給での延命もぎりぎりの段階にきていた。 保護者の同意書がとれない病院はここにきて、医師判断による手術を検討していた。 日本の法体系では、患者本人または保護者の同意を得るのが原則だ。しかし、生命が危険にさらされており、同意を待っている時間がない場合には、民法720条(正当防衛・緊急避難)や刑法37条(緊急避難)が根拠となり、医師は同意なしで治療・手術を行うことが許されると解釈したのである。 ここからの話は、山中の記憶と、実の記憶が食い違っている。 山中によれば、医師判断での手術を行う当日の朝、実が同意書をもって病院を訪れたことになっている。 実によれば、確かに一度同意書を書いて提出したが、翌日新生児科の担当医に会いにいき、書類に不備があったと言って同意書を持ってきてもらい、その場で奪い返したという。そして弁護士と相談をし、「両親の合意なくして手術を強行するな」と内容証明で申し入れたという。にもかかわらず、病院は医師の裁量権で手術をするということにして手術をしたのだという。 実は、手術をして生かしておいてあげたいという気持ちと、このまま逝かせるのがこの子のためだという気持ちの間で激しく揺れていた。 ともあれ、4月21日、病院側は全力をあげて手術をし、そして手術は成功した。母乳を飲んでいる! 看護師による日誌。 手術の翌日の4月22日。〈朝、一実ちゃんの顔を見にNICUの部屋にいったら良く眠っていました。 今日挿管チューブが抜けるそうだよ。よかったね。 おなかの傷が痛々しくて……。 今、痛い? 大丈夫かな。 本当に一実ちゃんはえらい! 一実ちゃんから看護婦さんはいっぱい元気と勇気をもらっているよ。 だから一実ちゃんにもいっぱい元気になってほしい。がんばれ!〉4月30日〈今日は腹の手術のところを全部抜糸しました。 ちょっとチクチクしたろうけど大丈夫! すっきりしたよ〉5月3日〈今日すごーく久しぶりにかずみちゃんの担当になりました。ミルクを飲んでいるのにびっくり。 一生懸命のんでいて すごくかわいい。 早く点滴がとれてぽちゃーんとお風呂に入りたいね。 今日はお腹から下しか入れなかったからちょっぴり嫌そうだったもんね。 ごめんね。 きっともうすぐだよ〉 薫はまだ病院には行けなかったが、実は毎日通っていた。 実は、薫がしぼって冷凍してあった母乳を温め、一実に授乳をしている。 哺乳瓶の口をつけると吸いつき、一生懸命小さな口をうごかしてコクコクと飲みはじめる。 生きている。この子は懸命に生きようとしている。 涙を流しながら実は、一実のことをもっといとおしいと感じるようになり、育てていこうという決心をしていた。なぜ神奈川こどもは羊水検査をしないのか? しかし、なぜ山中美智子は最初に薫が入院した20週の5日目から22週の間に、羊水検査をしなかったのだろうか? それどころか、出産にいたるまで薫は一切羊水検査をうけていない。 ダウン症は、羊水の中にある胎児の細胞の染色体を調べることで、ダウン症か否かの確定診断ができる。 十二指腸閉鎖であることは超音波でわかっていたはずだ。そうすればダウン症を疑い、通常は、羊水検査をして確定診断をうることになる。 その結果、中絶という選択肢をとる夫婦もある。 そうした機会は、薫と実には与えられなかった。 生まれるまでまさか一実がダウン症の子供だとは夫婦はわからなかったのだ。 神奈川こどもを初診で受診したその日のうちに入院をさせられ、退院をしたのが22週ちょうどという話を書いた。 そのことが重大な意味を持っている。 日本の法律では中絶ができるのは22週未満、つまり21週と6日目までなのである。 このことから、薫と実は、神奈川県立こども医療センターが、中絶できる期間がきれるまで入院という形で無知な自分たちを留め置いたのだ、と考えている。 つまり中絶をしないように隔離したのだと。 一実がダウン症であることは、出産から24時間以内に確定診断が出ていることから、最初に入院をさせられた時には、法定の中絶不可の日が迫っており、時間的に間に合わなかったという説明は説得力がない。 後に、薫や実も、神奈川県立こども医療センターが、一切の出生前診断や中絶をしない「特殊な病院だ」ということがわかってくるが、初診当時はわかっていなかった。 それにしてもなぜ、神奈川県立こども医療センターは、羊水検査や中絶をしない、「手がなくとも足がなくとも産む」病院なのか。 それは、ある障害者団体が神奈川県に座り込みを含む激しい交渉をしかけ、当時の県知事長洲一二(ながす・かずじ)が、次の文書を結んでいたからだった。〈障害者の生存権を脅かす恐れのある羊水検査を含めた胎児チェックは、こども医療センターを始め、県立病院では今後中止します〉 この文書が結ばれたのは、1976年6月。 神奈川県立こども医療センターの医師たちは、一切の出生前診断と中絶をすることは禁じられていた。 医師たちにこの文書が見せられたわけではない。口伝のようにして上層部から「ある障害者団体と神奈川県の大きな交渉があり、県が県立の病院では出生前診断と中絶をすることはしないと約束した」と言われてきた。山中もそのひとりだ。 薫も実も、私に取材をうけるまでまったく知らなかった事実だった。 神奈川県立こども医療センターで一切の羊水検査をさせないことを約束させたその障害者団体こそが、後に野口麻衣子らが着床前診断をうけたいと希望したときに、それを阻む論理の基礎をつくった団体でもあった。 その障害者団体は、神奈川で実質上生まれ、日本の障害者対策そして生殖医療の導入に大きな影響を与えた。 その名を「青い芝の会」という。 ◇証言者・主要参考文献篠岡薫、篠岡実、山中美智子『あし舟の声 胎児チェックに反対する「青い芝」神奈川県連合会の斗い』横田弘著 「青い芝」神奈川県連合会事務局 1976年10月※ 篠岡薫・実に、一連の経緯について聞いたあと、山中には再度取材をしているが、薫の出産については「人工妊娠中絶を避けさせるために妙な小細工をしたという認識は全くありませんし、隠し事をしていたという記憶もありません。ただ単にやるべきことを淡々と進めただけです」と答えている。【前回】生後3週間で光った息子の眼 自分と同じがん「遺伝させてしまった」