深掘り奥村智司印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする【動画】奄美の喜界島で戦時中にあった集団避難について話す大倉忠夫さん=奥村智司撮影

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81年前の1945年5月、特攻機の中継地になっていた奄美群島の喜界島(鹿児島県喜界町)で、島で暮らす全住民を山中に集める軍命が出た。沖縄に続く米軍上陸に備え、拒否すれば銃殺というこの集団避難は「山上(やまあ)がり」と呼ばれた。結果的に上陸はなく、沖縄の各地で起きた「集団自決」も避けられたが、ぬかるむ壕(ごう)に死を覚悟して身を潜めた記憶とともに、その後の人生を歩んだ人たちがいる。 45年4月、沖縄本島に米軍が上陸して地上戦が始まると、日本海軍の飛行場があった喜界島は、沖縄へ向かう特攻機の中継地となった。飛行場を狙った米軍の空襲が激しさを増す中、軍から島民への命令が下された。「命令に従わんば銃殺するっちど」 「戦時でも異常なことだったのでよく覚えている」。当時、13歳だった大倉忠夫さん(94)=神奈川県横須賀市=は、島で「山上がり」と呼ばれた集団避難を振り返る。 飛行場そばの中里集落に住み、連日の空襲に見舞われた一家は4月から近くの洞窟に避難していた。5月19日、父親が洞窟に来た区長と深刻な様子で話していた。山への移動を求める軍の命令を伝えられたのだ。 「すでに避難している。ここに残れないだろうか」。父親が尋ねると、「命令に従わんば銃殺するっちど(銃殺されてしまうぞ)」と区長は怒ったように言った。 大倉さんの一家11人は間も…この記事は有料記事です。残り1887文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人奥村智司西部報道センター|論説委員補佐専門・関心分野安全保障/エネルギー/水俣病/カネミ油症関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする