国内初の本格的なコンビニチェーン「セブン―イレブン」を生み出したセブン&アイ・ホールディングス(HD)名誉顧問の鈴木敏文(すずき・としふみ)さんが18日、心不全で死去しました。93歳でした。 鈴木さんが自身の半生を振り返った2016年9月のインタビュー記事「人生の贈りもの(全10回)」を再配信します。コンビニ生みの親、鈴木敏文氏を動かした「不便への腹立たしさ」とはトップ長すぎた、騒動は退くきっかけ ――1978年にセブン―イレブン・ジャパン社長に就いて以来、40年近く経営トップ。今年5月、後継者をめぐる人事騒動から名誉顧問になりました。 長すぎたねぇ。「適当なところで引かなくちゃ」とは、いつも考えていました。記者の方からよく「いつまで続けるのですか」と聞きにくそうに質問されたけれど、「いつ辞める」とは言えないからね。 オーナー経営者になろうなんて、まったく考えたことはありません。次男が入社して「後継者にするのでは」と言われたけれど、とんでもない! 私は経営と資本の分離を言い続けてきた。「息子を後継者にしろ」と言ったことは一回もないし、思ったこともない。 ――いま、会社近くのホテルの一室を拠点にしています。 生活はあまり変わらないですね。来客も多いし。いままでと同じ時間に家を出て、ここへ通っています。先日は、セブン―イレブンの商品部長が、パンの試作品を持ってきたんですよ。「味がいいかどうか、意見を聞かせてください」って。 ――試食、ですか。 実は「金の食パン」は2013年の発売から、原材料や製法を4回変えています。いまの試作品は5回目です。試食はだれにも負けません。でも、いつまでも続けていたら、私が経営のラインから離れた意味がないし、後が育ちません。 ――経営の一線を退いたのは、騒動があったからですか。 中途半端なことは一切、しないと。小売りの世界に50年、「いつかは辞めなければ」と思っていました。家内にも「いつまでも仕事を続けるつもりなの」と言われていました。今回は正直、いいきっかけでした。だれかに言われたわけではありません。ぽっ、と辞めた。4月の記者会見では「後継者は指名せずに辞める」と言いました。 ――自分自身で、何歳までと区切りはつけていたのですか。 私はずっと人事を担当してきて、役員の定年は68歳と定めました。若いときは、自分もそう思っていました。それも、時代が違ったとはいえ、ちょっと長すぎるかな、と。80歳を過ぎるなんて、仕組みをつくった立場からすれば、とんでもない話。若い人も、そう思うはずです。 ――でも、名誉顧問です。 商売上、厳しいことを言ってきた取引先のメーカーさん、店のオーナーさんから、こんなにも引き留められるとは思ってもみなかった。それで「自分でコンビニエンスストアを始めて、勝手に辞めるというのもどうかな」という気持ちになって。 コンビニを始めた74年当時、具体的にいまのような世の中になるとは、想像できたわけではありませんでした。でも、何とはなしに、すべて大型店の時代になるのではないか、と感じていた。だから、みんなに反対されても消費者に身近なコンビニを始めた。これからの経営者も、時代に沿った新しいモノをつくってもらいたいですね。起業夢みた縁、出版界からヨーカ堂へ ――退任の経緯は、日本でコンビニエンスストアをつくり上げた方としては、残念です。 そういう風に言ってくれる人もいますが、80歳を過ぎていつまでやってるんだ、と言う人もいるだろうし。でも、衰えはわかるものですよ。昔は名刺をいただいて、1回か2回で相手の名前を覚えていたのに忘れてしまうことが増えた。ゴルフでもボールが飛ばなくなりました。 ――老いは、だれでも認めたがらないものです。 私だって、相当、認めなかったほうですよ。でしょう? ――やはり、引き際の判断というのは難しいのでしょうか。 難しいですね。世の中がこれだけ変化する時代に、セブン―イレブンの国内外にある約6万店をだれに任せるのか。それを考えるのが、会長になっても社長の仕事もしてきた私の役目でした。5年先、10年先を見据えてだれがいいか。それを考えていました。 ――大学卒業後は、出版取り次ぎの東京出版販売(現トーハン)に就職しました。 私はもともとマスコミ志望でした。流通業なんてやるつもり、さらさらありませんでした。トーハンには、足かけ8年いました。入社後は出版科学研究所に配属になり、4年目には、「新刊ニュース」という広報誌の編集を担当していました。一流の作家や評論家にも登場してもらって。ちょうどテレビ放送が始まったころですね。 評論家の大宅壮一さんの門下生の人たちと「これからは電波の時代だ」と盛り上がり、テレビ番組のプロダクションをつくろうとなりました。スポンサー探しを始めると、友人が会わせてくれたイトーヨーカ堂の本部長が、「うちに来てやればいい」と言う。 ――この縁で、ヨーカ堂へ。 「プロダクション設立の資金を出してくれる」と言うから、30歳のとき、中途で入りましたが、当時はヨーカ堂どころか、スーパーも知らなかった。上司やきょうだいからも反対されました。当時のヨーカ堂は5店舗くらいで、企業の大きさではトーハンとは比べものになりません。テレビの仕事をやりたいという若気の至りで入ったのですが、独立プロの話はほどなく立ち消えに。本部長は、人が欲しかっただけのようでした。 正直、失敗したと思いましたね。でも、大反対を振り切ってきたから、「そらみたことか」と言われるのがシャクにさわるので、居着いてしまいました。 ――めぐり合わせですね。 だからわからないの、人間っていうものは。当時のヨーカ堂は管理部門が手薄で、販売促進、広報、人事と何でもやりました。売り場に立ったことも、レジでモノを売ったことも、実は私は一度もない。小売業には、珍しいと思いますよ。 ――よくなじめましたね。 本当に行き詰まったら、辞めればいいと思っていました。でも、出版科学研究所での経験が後で役にたちました。昼は読者インタビュー、夜は大学の先生を招いて、心理学と統計学を毎日3時間くらい勉強して。データの変化の見方や、消費者心理の読み方を身につけました。コンビニ生みの親、鈴木敏文氏を動かした「不便への腹立たしさ」とはコンビニ開業、反対押し切り1号店 ――セブン―イレブンの日本1号店の開業は1974年、鈴木さんが41歳のときです。 当時、個人商店が衰退し、商店街の活気が薄れていくのを感じていました。でも、スーパーだけでは、社会は成り立たない。中小の店と共存できないか、と考えていたところでした。米国へ視察に行ったとき、トイレへ行きたいという人がいて、入ったのがセブン―イレブンでした。そこで初めてコンビニがあると知って。このときは「米国にもこんな店があるんだ」という程度の関心でした。 日本の雑貨屋に毛のはえたような、どうってことのない店ですよ。でも当時、調べたら4千店もあるチェーン店でした。ショッピングセンターや大型店が林立する米国で、成り立っている。特別なノウハウがあるんだろうと勝手に解釈したんです。 ――ノウハウを吸収するため、提携を申し込みました。 最初は見向きもされなくて…