国内初の本格的なコンビニチェーン「セブン―イレブン」を生み出したセブン&アイ・ホールディングス(HD)名誉顧問の鈴木敏文(すずき・としふみ)さんが18日、心不全で死去した。93歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。 長野県出身。中央大経済学部を卒業後、東京出版販売(現トーハン)を経て、1963年にヨーカ堂(現イトーヨーカ堂)に入社。92年に創業者の伊藤雅俊社長(当時)が総会屋への現金供与事件で辞任したことを受け、副社長から社長に昇格した。2003年からはヨーカ堂とセブン―イレブン・ジャパンの会長兼最高経営責任者(CEO)として、グループ全体の指揮を執った。 05年9月には持ち株会社のセブン&アイHDを設立し、会長兼CEOに就任。翌年6月には、そごうや西武百貨店を傘下に持つミレニアムリテイリング(当時)を完全子会社化した。日本チェーンストア協会会長や経団連副会長なども歴任した。 国内のコンビニの「生みの親」とも称された。イトーヨーカ堂で店舗開発を担当していた1970年代初め、中小規模の小売店を活性化させる手段として、米国で急成長していたコンビニに着目。社内外の「時期尚早」との反対を押し切り、米サウスランド社と提携し、73年にヨークセブン(現セブン―イレブン・ジャパン)を設立。自らも出資し、専務に就いた。 74年5月に東京・豊洲に1号店を出店。24時間営業に加え、販売時点情報管理(POS)システムを使って客の好みの変化に合わせた品ぞろえを追求し、弁当や総菜を強みとするコンビニのスタイルを構築した。セブンの国内店舗数は現在約2万2千店に上る。 2016年5月にセブン―イレブン・ジャパンの社長人事をめぐる混乱の責任を取り、セブン&アイHDの会長を退いた。即断即決のワンマン経営と徹底した消費者目線 「みんなが反対することをやれば必ず成功する。みんなが反対するのは、我々しか思いつかないことだから、チャンスだ」。5月18日に93歳で亡くなったセブン&アイ・ホールディングス名誉顧問の鈴木敏文氏は、よくそう語っていたという。その言葉通り、周囲の反対を押し切ってコンビニを生み、日本最大級のチェーンストアに育て上げた。 ヨーカ堂(現イトーヨーカ堂)に中途入社したのは1963年。テレビ番組のプロダクションを立ち上げるためのスポンサー探しをしていたところ、ヨーカ堂から「うちに来てやればいい」と言われたという。しかし入社後にその話は立ち消えに。「正直、失敗したと思った」と振り返る。 もともと流通業に関心はなく、ヨーカ堂では広報や人事、販売促進などを手がけた。転機は新規事業の開発を担当した70年代だ。米国で見かけたセブン―イレブンを国内で展開すべきだと考えた。だが当時は「大きいことはいいことだ」の時代。コンビニのような小型店は「うまくいくはずがない」と社内でも反対の声が大きかった。 しかし鈴木氏は反対を押し切り、セブンを展開する米サウスランド社との提携交渉をまとめ、73年にヨークセブン(現セブン―イレブン・ジャパン)を設立。日本の実情に合わせた運営ノウハウを一からつくり、74年、東京都江東区の酒店を改装してセブン―イレブン1号店を誕生させた。 その後も新たな仕組みを次々と導入し、コンビニの成長を支えた。商品の売れ行きを一品ごとに把握する「単品管理」や、一定の地域に集中的に出店して認知度や物流効率を上げる「ドミナント戦略」などだ。 銀行業への参入やプライベートブランド「セブンプレミアム」の立ち上げなども、反対意見がある中で推し進めた。そんな即断即決のワンマン経営と徹底した消費者目線で、セブン&アイHDを巨大流通グループに押し上げた。 セブン&アイHD会長だった2016年、自らが主導したセブン―イレブン・ジャパンの社長人事が取締役会で否決され、責任を取る形で会長を退任した。ただ鈴木氏はその時点ですでに83歳。のちに「正直(退任の)いいきっかけだった」とも振り返った。