この社説のポイント●国民の戦争への嫌悪を基とする戦後日本の平和主義は、世界に対する約束でもある●各地で戦争が続き、防衛力強化論が強まる。平和主義はかつてない試練に直面している●軍備増強は地域の緊張を高める。他国に配慮する外交で平和の実現を追求すべきだ

[PR]

ウクライナ、ガザ、そしてイランの各地からがれきの山の映像が伝えられるとき、戦時の日本を連想する人は少なくなったかもしれない。現実のきな臭さが増す一方で、戦争を経験した世代は去っていく。だからこそ81年前の夏を改めて振り返りたい。戦後の原点とは何か 1945年8月15日。内大臣の木戸幸一は、皇居前で群衆が「万歳」を繰り返し叫ぶのを耳にした。こんな手記をのこしている。「国民が絶望的な戦争に堪へきれず、如何(いか)に平和を望んで居たかが如実に示された様に思はれた」 東京を焼け出された永井荷風はその日を岡山で迎え、祝いの酒に酔った。日記『断腸亭日乗』には8月20日、「とにかく平和ほどよきはなく戦争ほどおそるべきものはなし」と書いた。 戦争だけはもうこりごりだ、という国民感情を、文芸評論家の加藤典洋は「草の根的な平和主義」と呼んだ。その土台の上に戦後の政治と外交が展開する。実際のところ、日本は徐々に防衛力を拡大するのだが、平和主義は今日に至るまで国是として維持している。 戦後の平和主義をもたらしたもう一つの要因がある。 永井荷風が東京大空襲に遭う8年前、中国の作家・茅盾は上海で日本軍の空襲に対峙(たいじ)していた。「敵の飛行機は毎日我々各地の平和な街に海賊のような攻撃を加えている」「侵略者の狂気と残酷さを認識し、命をかけて祖国を守ることを決意するのだ」(「救亡日報」1937年9月8日付、『日中の120年 文芸・評論作品選第3巻』から) 日本は中国大陸で戦端を開き、米英に挑み、同盟関係にあった伊独の敗北後もひとり無謀な戦いを続け、ポツダム宣言受諾時には約50カ国を敵に回していた。戦争を放棄し、平和国家に生まれ変わることを国際的に約束して、かろうじて存続を許された。 忘れてはならない戦後日本の原点である。これまでにない試練 平和が大事だと言いながら、実際にはさほど深刻に考えずに済んできたのが戦後の日本だった、とも言える。北東アジアにおける冷戦の最前線は朝鮮半島と台湾海峡にあり、日米安保体制によって守られる日本は、沖縄を米軍拠点に差し出したうえで、後方の位置に安住した。 だが最近は「戦争に備える」方向へと議論が傾いている。ロシアのウクライナ侵攻のようなことが起きるという不安。中国軍は海空を通じて日本周辺まで直ちに実力を及ぼしうる水準に達した。 同盟国の米国は暴走あるいは迷走する。他国との貿易・投資関係は平和に資するはずが「経済の武器化」と言われるようになった。 平和主義にとっての試練に対し、向き合い方は容易には見つからない。 私たちの生活と国際関係はつながっているのに「安全保障は別」と思わされていないか。そう考えるのは、戦後の平和論を研究してきた山本昭宏・神戸市外大教授だ。 例えば、外国出身者との共生を進める地域の市民が平和共存をめざす外交を願うのは自然だが、それは現実離れしていると批判を受ける。ところが外国人排斥を叫ぶ攻撃的な声は、軍事力強化論へと容易に直結する。「この違いに疑問を持っていいのではないか。もっと平和を語っていいのではないか」と、山本さんは考えている。外交は機能しているか 60年の日米安保条約改定を挟んだ時期に一つの山場があった。若き国際政治学者、東大の坂本義和と京大の高坂正堯による論争である。 坂本は日米安保体制に代わって「中立的な諸国の部隊から成る国連警察軍」の日本駐留と、その指揮下に自衛隊を置くことを構想した。これに対し高坂は、日米安保体制が極東で力の均衡をもたらし、戦争を防いでいる現状を評価すべきだと批判した。 理想主義対現実主義、と捉えられがちな論争だが、坂本は従来の平和論から大胆に踏み出していた。高坂は、追求すべき価値として平和を重視し、それを抜きに現実主義は成り立たないと強調した。 いずれも考え抜かれた議論として、今なお耳を傾けるべき重みを持つ。 防衛力重視の声が強まる状況は、外交上の努力を怠っていることの裏返しであることが多い。81年前の敗戦は、外交力を発揮できず、軍を抑えられなかった結果だった。 対中外交が正常に機能していない現状は大丈夫なのか。財源の裏付けが不十分な防衛予算でいいのか。政府が防衛産業の旗を振る「安全保障と経済成長の好循環」の論理は妥当か。そもそも防衛力増強は他国の軍拡を招き、かえって地域の緊張を高めないか。 平和の価値を再確認したうえで、理想と現実の接点を探る議論が求められている。 問題は他国から攻撃されないようにすることだけではない。他国が攻撃を受けると思わないよう周到に配慮し、行動する。追求すべき平和が、そこにあるはずだ。国連事務次長「軍事力だけに頼らない安全保障は『お花畑』ではない」「社説digital」は、朝日新聞朝刊に掲載する社説をいち早くお届けします。