増山祐史印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする

[PR]

高校球児の熱戦が続く阪神甲子園球場に、甲子園ゆかりの品々が並ぶ甲子園歴史館が併設されている。そこに、阪神タイガースが1985年に21年ぶりのセ・リーグ優勝を成し遂げた時のウィニングボールもある。 監督や選手のサインが並ぶこのボールはもともと、ある球団関係者に贈られたものだった。悲願の瞬間を誰よりも待ちわびながら、かなわなかったその人への優勝報告として。 「日航123便、レーダーから消える」 85年8月12日夕、速報がテレビに流れた。後に、単独の航空機事故としては史上最悪とされる日航ジャンボ機墜落事故だ。【分かりやすく】520人が犠牲になった修理ミス 墜落機内で残した言葉と事故原因「語り継いでいく」 日航機墜落事故41年を前に、ふもとで灯籠流し 「えらい事故やな」 大阪府内の自宅でニュースを見ていた中埜(なかの)克(まさる)さん(75)は妻と話していたが、あまり気にとめていなかった。 その数時間後、テレビのテロップに流れた乗客名簿のなかの「ナカノ ハジム」の文字に、克さんや阪神タイガースの関係者は衝撃を受けた。 克さんの父・肇(はじむ)さん(当時63)は、阪神電鉄の専務取締役鉄道事業本部長だった。事故前年の84年秋のオフシーズンからは阪神タイガースの球団社長を兼務していた。 戦時中は海軍の将校だった。大学で土木工学を学んだ経験から、47年に阪神電鉄へ入社。鉄道設備の安全などに関わり、4代目球団社長へ抜擢(ばってき)された。 事故当日、運輸省(現国土交通省)で開かれた日本民営鉄道協会の会議に出るため、東京に出張していた。阪神電鉄の常務とともに羽田空港から兵庫へ帰ろうとして、事故機に乗っていた。 次男の克さんは翌13日から羽田空港へ行き、JALの用意したバスで、事故機が墜落した群馬県へ向かった。「せめて遺体だけでも見つかってくれ」。遺体安置所となった藤岡市内の体育館で待ち続けた。 事故から5日後の17日、遺体がみつかった。損傷が激しく、歯形でようやく身元を特定できた。「この姿を母には見せられない」。棺の中を見たいと迫る母を、「俺は何言われてもかまへんけど、絶対見せへんで」と最後まで止めた。「ありがたいのはファンや」 事故前に明かした思い 肇さんは部活動など野球の経…この記事は有料記事です。残り1088文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

【この記事の続きが読める】有料記事が読み放題のスタンダードコースが初回1カ月無料!詳しくはこちら宅配紙面の購読者なら、ダブルコース半年割がお得です。詳しくはこちら

この記事を書いた人増山祐史東京社会部|国土交通省担当専門・関心分野運輸行政、事件事故、独占禁止法、スポーツ関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする