コラム・寄稿「最低最悪」の国会 国論を「二分」どころか「無化」する自維の暴走編集委員・高橋純子印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする

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記者コラム「多事奏論」 編集委員・高橋純子 言葉を探している。 審議時間が少ない。まともに答弁しない。そもそも首相が出てこない。そんな途方もないないないづくしのなか、戦後日本が大事に守り、育んできた「自由」「平等」といった価値を毀損(きそん)する法案をバカスカ成立させたこの、ありえない国会を論評するにふさわしい言葉を。 「最低」では不十分。「最悪」でもだめ。「最低最悪」で少しは近づいた気もするけれど、まだ足りない。 ひょっとすると、現存する日本語ではもう追いつかないところまで事態は進行してしまっているのかもしれない。恐れ入谷の鬼子母神、ウソを築地の御門跡。 もちろん、数の力にものを言わせた強引な国会運営はこれまでも多々あった。それでも今国会を「最低最悪」(仮)と言わずにおられないのは、なんといっても高市早苗氏の首相としての姿勢には耐えがたいものがある、許しがたいものがある、あるあるづくしだからである。 わかりやすいので、高市氏が「政治の師」と仰ぐ安倍晋三元首相と比べてみたい。たとえば閣議決定による集団的自衛権の行使容認と安全保障法制をめぐる2015年の国会質疑。憲法の縛りを、改正以外の姑息(こそく)な手段でほどくことへの、ある種の「やましさ」を安倍氏は最低限自覚していて、だからこそ、「やましさ」に裏打ちされた気迫をみなぎらせ、国会というリングに上がっていたように思う。けんか腰の姿勢や牽強(けんきょう)付会な答弁の数々は決してほめられたものではなかったけれど、論戦を受けて立ちはした。 一方、高市氏はリングに上が…この記事は有料記事です。残り752文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする