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だれもが老い、病み、死ぬ。大阪市住吉区の浄土宗願生寺(がんしょうじ)の住職、大河内大博(だいはく)さん(47)は心のケアの専門家であり、病院に勤めて末期がん患者らに寄り添ってきた。両親を相次いで看取(みと)った経験もある。死にゆく人を看取ること、悲しみとの向き合い方について聞いた。 ――病院ではどのような活動をしてきたのですか。 兵庫県川西市にあった市立川西病院の緩和ケア病棟でスピリチュアルケアのカウンセラーをしました。患者の声を聞く「チャプレン」(宗教施設以外で活動する聖職者)です。その後、上智大グリーフケア研究所で心のケアの研究や指導に関わり、医療法人社団日翔会では訪問診療に携わりました。チャプレンとして病院と在宅を経験し、研究者として人材育成もしました。 病や死の不安に対し、私がよく使う言葉として「いつ死んでもいいように、でも今死んでる場合じゃない生き方」があります。家族や仕事など背負っているものがあり、今死んでる場合じゃないと思える日常に感謝する。でも、いつか死ぬ。その不安にあらがうことはできず、死を受け入れるしかありません。仏教では如実知見(にょじつちけん)と言いますが、ありのままに見つめることです。 ――両親を在宅で看取った経験を教えてください。 父は17年に膵臓(すいぞう)がんで亡くなりました。半年ほど前から腰痛を訴えましたが、検査でもわからず、亡くなる1カ月前にがんがわかったときにはステージ4まで進行していました。 近隣のお寺や檀家(だんか)さんには、腰が痛くて倒れていますとうそをつき続けました。そのうそが本当になって、ただの腰痛にならないか、奇跡が起きないかと妄想しました。 亡くなる直前、ベッドで寝ていた父の口角が上がり、ニコッとしたと思ったら左手を2回挙げました。「お久しぶり」と言っているような表情でした。極楽浄土からお迎えがあり、多くの人と再会でき、父は寂しくないなと思えました。 ――お母さんはいかがでしたか。 20年の正月ぐらいからおなかが痛いと言って、3月に肺がんが見つかりました。ステージ4です。肝臓に転移し、脳移転も始まっていました。 病院でがんを告げられたとき、母は「治療できるんですね」とボソッと言ったんです。父が治療できずに亡くなり、無念だったと母は感じていたようです。ただ、抗がん剤治療をしても効果はなく、母も「もうあかんね」と覚悟しました。 父と同じ部屋に同じようにベッドを入れました。そのベッドに横たわった母が「お父さんはこんな気持ちやったんや」とつぶやきました。この言葉は私の死生観に影響しています。 母でさえ、父の気持ちをわかっていなかった。私も同じで、チャプレンとして多くの患者や家族と時間を過ごしても気持ちはわかっていなかった。死んでいく人には死んでいく人にしかわからない思いがあります。 他者理解には限界があります。それでも関わる心のケアとは何か。答えが出ないからこそ謙虚であるべきですし、わかったつもりになることほど危険なことはないと教えられました。 ――在宅の難しさはどんなことですか。 誰もが在宅で看取れる社会ではありません。地域の在宅医の質と数を増やす必要があります。信頼できる在宅医がいても、普段からつながっておくことは難しく、医療リテラシーも高めなければなりません。介護する家族を体力的、心理的に支えることも欠かせません。 病院は常に医者や看護師がいて夜中でも安心です。入院は線ですが、在宅は点です。医者や看護師が来てくれても夜は家族だけです。点と点のすき間を埋めるため、多くの人が関わることが重要です。 ――宗教者が関わる意味はどんな点ですか。 家族は、無理だとわかっていても奇跡が起きてほしい、でも別れが来てしまうと揺れ動きます。患者もあきらめつつ、まだ生きられるかもしれないと希望を持つものです。行ったり来たりするのが人間の自然な気持ちです。 その不安に耳を傾ける宗教者が地域に入ることが重要です。患者や家族との対話を医者や看護師と共有し、よりよい医療につなげます。 ――どんなにいいケアをしても家族には後悔が残ります。 生き死にのケアに100%はなく、悔いが残るのは当然です。その後悔が大事です。 愛着や執着があるから失うと苦しみます。失った人の存在が大きければ苦しみも大きい。その苦しみのなかに、助けてあげられなかった、こうすればよかったという後悔が含まれます。 その後悔は、亡くなった人が生きていたことを忘れないようにする営みでもあります。悔いを持つことで、その人の命を自分の心の中で生かし、その人の分まで生きようと思えます。 ――死や死後の世界をどう考えたらいいですか。 家族の視点で言いますと、死別後、何かしらのつながりを求めます。それがお墓や法事、遺骨、写真です。死は無、死んだら終わりと考えている人が強い悲嘆を持つと、例えばお墓に手を合わせたり、お仏壇に話しかけたり、そういった亡き人とのつながりを持ちにくく、苦しみが強くなるかもしれません。 一方、信仰を持っている人は強い。死は終わりではなく、人生のイベントの一つに過ぎず、信仰によっては、死後に再会できると受け止めることができます。 ――悲しみを和らげるにはどうしたらいいですか。 悲しみや苦しみが癒えきることはありません。後悔も残り、会いたいという気持ちも募り、生きてくれていたらなあという思いが何年たってもわいてきます。でも、その人がいない世界を生きなければなりません。 折り合いをつけるしかありません。それには時間が必要です。いわゆる時間薬、時薬です。 そして、そのときに話せる相手がいることが大事です。話すことは放つことで、話せば自分自身の気持ちと距離が取れます。1回出した思いを自分の心に戻し、また話すことで距離を取る。その作業を続けながら自分のなかで整理し、だんだんと折り合いをつけます。 ただ現代は、話す機会が少なくなりました。近所づきあいが薄れ、葬儀では家族葬が増え、コミュニティーのなかで悲しみが癒やされにくくなりました。 ――AIが心を癒やす存在になりますか。 亡くなった人の声や動画で…