【動画】想いをつづって
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突然の宣告だった。 「言語をつかさどる部分が損傷しています。話すことは難しくなります」 脳梗塞(こうそく)で倒れた夫の病状を医師から聞き、鈴木和子さん(79)は目の前が真っ暗になった。 家族5人の食卓でいつも会話の中心だった夫。時事的な話になると熱くなり声が大きくなった夫。 そんな彼の言葉をもう聞けなくなるなんて。 家に戻り、声をあげて泣いた。 家族の前、バスの中、ところかまわず泣いた。 しばらくして、クローゼットの奥にしまっていた菓子缶に手を伸ばした。 中には、結婚の前後に夫と交わした手紙の束が入っている。 「夫の言葉に触れたい」 封筒は色あせ、ところどころ破れていた。 最初の1通を手に取った。和子さんから送ったものだ。 《口では言えないことがあるから、それを正直に書きたいと思っていたのです。あなたの前では素直になりたい。「素直になる」ということ、人間として最高の愛の形態だと思っています》 5日後の返事にはこうあった。 《「素直でありたい」 何とすばらしい事だろう。しかし又(また)、僕の前で無理をする必要もない。自然でありたい。今僕は全く君を信じる事が出来る》 こうして始まったやり取りは、2年ほどで300通を超えた。 仕事の悩み、文学や美術のこと、伝えきれなかった思い――。 毎週末のデートだけでは時間が足りなかった。離れた時間を埋めるように、便りを交わした。 あのころ、あなたは私にどんな言葉をかけてくれていたの? 何を伝えてくれていたの? その晩から、眠る前に布団の中で古い手紙を開き、夫の言葉を探し求める日々が始まった。 夫の義彦さんと出会ったのは、大学1年のときだった。 学習サークルの会合で顔を合わせた。 すらっとした長身に、さわやかなグリーンのブレザー姿。温和な雰囲気。 すぐに心を奪われた。 その後は会う機会がなく、思いを秘めたまま時が過ぎた。 和子さんが高校の国語教師として歩みはじめた頃、友人の婚約式で偶然再会した。 義彦さんは大学院の博士課程に進み、半導体の研究に取り組んでいた。 式の後、夜道は危ないからと下宿先まで送ってくれた。 しばらくして職場の学校に電話がかかってきた。 「会いませんか?」 答えはもちろん「はい」だった。 当時、和子さんは兵庫県宝塚市で下宿生活。義彦さんは大阪府豊中市で実家暮らし。 同居人や親の目が気になり、長電話はできない。毎週日曜は朝から晩までともに過ごしたが、話し足りなかった。 交際がはじまって2カ月ほど経った頃、和子さんの提案で手紙を送り合うようになった。 和子さんが生徒との向き合い方に悩んだ時、義彦さんは力強い言葉で励ましてくれた。 《生徒にひけ目を感じる事はない。自分が悪いと考えれば益々(ますます)ダメな授業になる。自信を持って! それが君には最も大切だネ》 時は1970年代初め。学生運動の波が高校にまで及び、授業どころではなくなっていた。 生徒から連日糾弾され、職員会議が深夜まで続く。心身が削られていく和子さんを、義彦さんは支え続けた。 《君はどうしているのだろうと一分一分心配しているような感じです。それでせめて手紙で君の近くに居たいと思って書いているわけです。一分 否 一秒一秒 否 瞬時瞬時君の事を思って心配している事を忘れないで下さい》朝日新聞ポッドキャストでは、取材の裏側を記者が語り、記事内で公開していない手紙も紹介しています。記事の最後に音声プレーヤーがあります。 手紙は、義彦さんの嫉妬深い一面も映した。 和子さんが男性の同僚に人生…






