京都・祇園祭の本質は疫病退散 牛頭天王が用心棒、怨霊から京を守る聞き手・岡田匠印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする

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7月の京都は祇園祭に染まる。実はこの祭りの目的が、疫病をもたらす怨霊を鎮めることだということはあまり知られていない。記憶に新しい新型コロナウイルスをはじめ、感染症は今も私たちを脅かす。立命館大学の入試問題をもとに、佛教大学の八木透名誉教授(民俗学)に疫病退散と祭りの関わりを深掘りしてもらった。京都・祇園祭 前祭の宵山始まる 17日の山鉾巡行に向け華やぐ都大雨で鴨川が氾濫すると この問題文にあるように、平安京ではしばしば疫病が流行しました。特に梅雨の終わり、今の暦で7月ごろに大雨が降ると鴨川が氾濫(はんらん)します。下水があふれ、食中毒や伝染病が広まり、多くの死者が出ました。 疫神が京都の町を横行するといううわさが広まり、家から出る人がいなかったこともあったようです。コロナ禍のステイホームに近いかもしれません。 平安京の人たちは、疫病をもたらすのは死者の怨霊、たたりだと考えました。権力闘争に敗れて非業の死を遂げた人がうらみを晴らすという考え方です。 怨霊は御霊(ごりょう)と呼ばれます。御霊を集めて怒りを鎮め、都から送り出す。この儀式が「御霊会(え)」です。様々な水辺の近くで催されました。 その中で祇園祭の始まりとされるのが、869年に神泉苑(しんせんえん)で営まれた御霊会です。牛頭天王(ごずてんのう)をまつり、当時の日本の国の数と同じ66本の鉾(ほこ)を立てて御霊を集め、祈願しました。怨霊は空から 怨霊は空からやってくると言われていました。寄せ集めるには、高さがあり、きらびやかで目立つほうがいい。それで鉾を立てたのです。 牛頭天王はインドから朝鮮半島を経て日本へ伝わった神で、日本では疫病をもたらす神とされました。敵に回せば恐ろしく、味方につければ力強い。私は「平安京の用心棒」と呼んでいます。 平安京の人たちは、神さまに休んでもらう御旅所(おたびしょ)を洛中に作り、疫病がはやりやすい時期に牛頭天王と妻、子どもを神輿(みこし)に乗せて招きました。牛頭天王の一家を歓待し、そのパワーで平安京を疫病から守ってもらう。これが祇園祭の本質です。 問題文には「疫病は、身分を越えて人々に襲いかかるため、地域的なまとまりを生み出しやすい」とあります。 祇園祭も庶民が主導していくようになり、鎌倉末期から南北朝時代には山鉾が登場します。山鉾を出す町は大企業の集まりです。海外からタペストリーを買い、山鉾に飾るなど町同士が競い合うようになります。その周りで太鼓や鉦(かね)に合わせて踊る「風流」と呼ばれる芸能も発展していきました。 当時の町は、今の市町村、もっと言えば国に近いかもしれません。自分たちの生活は自分たちで守るという自治・自衛組織でした。疫病がきっかけで生まれた祇園祭によって、町はより強固に結束したとも言えるかもしれません。芸能が地方に広まる 問題文に「地方都市の住民たちを結束させる契機となっていった」とあるのも、この時期のことです。応仁の乱をはじめ戦乱が続き、京都を離れた公家や大名が地方に広めたとされています。江戸時代には、お囃子(はやし)を習いに地方から来る人もいました。 山鉾は滋賀県や三重県など各地に広まりました。サギの姿をして踊る「鷺舞(さぎまい)」は今も山口市や島根県津和野町で続き、住民の結束に結びついています。 京都の名所や行事を描いた洛…この記事は有料記事です。残り674文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません