コラム・寄稿サッカー部出身の芥川賞作家が見たワールドカップ 応援は全体主義か印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

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サッカーワールドカップ(W杯)北中米大会が連日話題だ。日本代表の活躍に、国内のサポーターも沸いている。時に熱狂の渦を巻き起こす「応援」という行為は、どのような意味や欲望をはらんだものなのだろうか。芥川賞作家で、京都大サッカー部出身の畠山丑雄さんが、その渦の中で思索した。【畠山丑雄さんが出演する記者サロン】「文学という共有地 芥川賞から考える、書く人と届ける人の間合い」寄稿・畠山丑雄さん もう一つの時間を生きる チュニジア戦は稀(まれ)に見る完璧な試合だった。この記事を書いている時点では、まだスウェーデン戦の結果は出ていないが、グループステージ突破の可能性は高いだろう。史上最強の呼び声もある今回の日本代表に対する期待はかつてないほどに高まっている。代表戦、特にW杯には日頃サッカーに興味がない人までも熱狂の渦に呑(の)み込むような、特殊な磁場がある。私自身既に渦に呑み込まれてしまい、慢性的な寝不足に陥っている。 しかし応援というのはよく考えると不思議なものである。私は小学校の頃からガンバ大阪のサポーターで、一時期はホームゲームは必ず応援に行っていた。ガンバが勝とうが負けようが、私の人生には影響がない。けれども影響がないこととは関係なしに、勝てばうれしいし負ければかなしい。J2に落ちた時は涙したし、その後一週間ほどは「あのときああしていれば」と選手でもないのにシーズンの色んなシーンを振り返って勝手に後悔していた。 例えばそれは私がずっとサッカーをプレーしていたことと、関係があるだろうか。プロのプレーヤーはプロになれなかったほとんどすべてのプレーヤーにとっての、憧れであることは間違いない。もしかしたらチームを応援し始める時は、道半ばに終わった自らの代わりに、道の先を行ってくれる存在として、自らを仮託したい気持ちがあるのかもしれない。しかしどうもそれだけではない気がする。 サポーターには時折サポーターとチームが一つの大きな生き物のように感じられることがある。一体感、というより、もっと生々しい感覚である。そのような、自分自身がチームに溶けていくような恍惚(こうこつ)とした悦(よろこ)びこそが、サッカーを応援する醍醐(だいご)味の一つだろう。 こう書いていると、全体主義…この記事は有料記事です。残り759文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

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