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希代の占師・細木数子はスキャンダラスに描かれているのか、それとも美化されているのか――。そんな観点からも注目を集めるNetflixのドラマ「地獄に堕ちるわよ」。山形大准教授で映画評論家の大久保清朗さんはこのドラマに、名作映画「市民ケーン」との共通性を見いだした。その心は。成り上がりに痛快な迫力 ――注目した点は。 「細木数子という1人の女性の人生を、長い時間をかけて描く作品です。興味を抱いたのは、舞台となる戦後の焼け跡から始まり、そこから復興して、経済成長をとげる日本の姿をどう描くか、という点でした」 「銀座など東京の中心街をはじめ、非常に見応えのある画面を作る必要があるわけですが、その点は健闘していたと思います。最後のキャストやスタッフのクレジットを見ると、何社もCGの制作会社の名前が載っている。昔に比べると、CGの使い方が洗練されてきているという印象を持ちました」 「特に第1話で描かれていた、焼け跡に広がる闇市の描写には久々にハッとさせられました。その中で生きている人たちの生活を詳細に再現していると思いますし、さらに言えば、敗戦の中で辛酸をなめた人たちの物語を生き生きと描いていました」 ――物語の筋書きは、いかがですか。 「伊藤沙莉さん演じる小説家が、戸田恵梨香さん演じる数子に取材し、回想形式で話が進んでいきました。そして終盤に数子の弟と、数子が深く関わった思想家の娘が登場し、全く印象の違う数子の姿を明かします」【娘はこう見た】細木数子の娘、法務を連れたネトフリに諦め「どうこう言っても…」 「物語の手法としてはオーソドックスで、1941年のアメリカ映画『市民ケーン』に近いと言えるかもしれません。あの作品も、新聞王ケーンの多面的な姿を新聞記者の取材で解き明かしていく物語でした」 「数子自身が語る半生の描写も、どんどんと成り上がっていく痛快な迫力がありました。三浦透子さんの演じる島倉千代子が登場して、数子の話と、弟の話とで食い違いが生じるところで、物語が面白くなっていく」美化しすぎる部分は? 「ただし、水商売の経営者から占師に転身するきっかけが、『島倉千代子に男を奪われたこと』であるのは、引っかかりました。物語前半では、数子はバーの経営をしながら数々の裏切りにも直面してきた、という描写が積み重ねられています。それなのに男を取られただけで揺らぐのか、と疑問に思います。時代が下っていくごとにメスの入れ方が弱くなっていて、やはり創作である、ということを強く感じさせられました」 「日本の中で、占いや新興宗教と言ったスピリチュアルな領域を描くことは、あまりなされてこなかったことでもあります。伊丹十三監督の『マルサの女2』という先例もありますが、その点については挑戦的な作品でもあったと言えます」 ――細木数子というヒロインの描き方は、どう見ましたか。 「強く欲望するという生き方、そしてそれがもたらすものを描き切りました。正しく生きることを強要するでもなく、はっきり言えば『間違っていても押し切っていく強さ』を肯定していく物語です」 「数子が絶対に逆境に負けないところや、弱音を吐かないところは、物語の中で留保無く肯定されていた、数少ない点だったと思います」 「大学で毎日のように学生たちと接しますが、今の20代のもろさはすごく気になる時があります。将来は今あるシステムの中に、どうやって自分を組み入れていけるかに、全力を傾けている」 「それに対して、物語の数子はほとんど何もないところからサポートは得ながらも、自分の才覚一つで乗り切っていく。ある種のロールモデルを提示した作品なのだろうと感じます」 ――実在の人物をフィクションとして描く手法はどう思いますか。 「結局、『市民ケーン』という作品も、ケーンのモデルとなった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストを怒らせてしまい、ハーストの妨害工作を受けました。モデルとなった人の負の側面にメスを入れていく作品について、当事者サイドとの衝突が起きることは避けられないと思います」 「すると、少し美化を感じるような伝記物が登場することになる。『地獄に堕ちるわよ』にも美化しすぎる部分もあるにはあった。もう少し時代が離れないと鋭い批判は難しいのでしょう。しかし今作は、細木数子という人物を近い時代に描いた。そこに価値があったと感じます」 ◇ おおくぼ・きよあき 1978年生まれ。朝日新聞、キネマ旬報などで映画評を執筆。細木数子の娘、法務を連れたネトフリに諦め「どうこう言っても…」戸田恵梨香、細木数子の週刊誌記事に驚き「記者を誘って飲むなんて」