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語る 太田幸司(1) 1924年に阪神甲子園球場が誕生して100年余り。長い歴史の中で甲子園を沸かせたアイドルの第1号といえば、この人だろう。69年の第51回全国高校野球選手権大会決勝で延長18回引き分け再試合を投げ抜き、準優勝した三沢(青森)の太田幸司さん。 6月8日には地元青森県で春季東北地区大会が開幕。74歳のレジェンドに、自身の歴史を振り返りつつ、東北勢の活躍についても語ってもらった。 《青森・三沢が生んだ元祖「甲子園のアイドル」も74歳になった。今もプロ野球の解説を務め、硬式チームで中学生を指導する日々。野球を愛し、野球談議を始めると止まらない》 今春の選抜大会で八戸学院光星(青森)は8強入りか。青森の学校も強くなったよね。東北(宮城)に花巻東(岩手)も好チームだった。僕らの頃は東北6県で1校だけ。東北大会で優勝しなきゃ出られなかったからね。 2022年夏に仙台育英が東北勢として初めて全国制覇したけど、それまではやっぱり57年前のウチが記憶に残るというか奇跡というか。深紅の大優勝旗に近づいたチームだったのかな。強さの源流、基地で硬式野球 《甲子園に出てもほとんど初戦敗退。「野球後進県」だった1960年代の青森から突然、全国準優勝するようなチームが出てきた》 三沢ならではの事情もあるわね。米軍基地があるでしょ。基地にリトルリーグの硬式チームがいくつかあって、そこに市内の小学校の選抜チームも入って試合をしていた。だから僕らは軟式と硬式の両方をやっていた。 選抜チームでは後に三沢高校の主力になる同学年の八重沢憲一、桃井久男、菊池弘義らが活躍して東京の大会に出た。 僕? そのころは外野手で目立たない存在だった。東京行きのメンバーに選ばれず、汽車に乗る仲間を見送って「がんばれよ」なんて言いながらさみしかったね。 昭和30年代当時、硬式球を握っていた子どもなんてあまりいなかったと思う。みんな高校に進んでも違和感なくやれたというのはあるね。三沢高でも、基地から高価な米国製の「ルイスビルスラッガー」のバットをもらって、試合の時に大事に使っていた。 《三沢一中に進んで投手に転向し、人生が変わる》 一中は強かったんですよ。僕らが小6のときに県大会で優勝して「おれもここでがんばるぞ」と思った。最初は外野手だったんだけど、1年の秋か2年だったかな。投手がケガでいなくなって、顧問の立崎庸夫先生が「太田はセンターから本塁にダイレクトでズドーンという球を投げていたよな。肩が強いんだから投手をやってみろ」と言ってくれた。 立崎先生、僕の担任で美術の先生だったんだけど、本当に人生を変えてくれたよね。制球が悪くて10球に1球ぐらいしかストライクが入らなかったけど「それでいい。一生懸命練習したらストライク入るようになるから」って励ましてくれた。「制球が悪いからダメ」と言われたら今の太田幸司はいないわけやから。 それで3年生になったら結構いけるなって。県大会でベスト4ぐらいまでいったのかな。大人のチームと練習試合をしても負けない。もしかしたら高校で甲子園に行けるかも、なんて思いました。オール5も どの高校に?教師も割れた 《進路は迷った。学校の成績も良く、オール5をとったことも》 近隣の進学校、八戸高に行こうかなと思っていた。だけど野球部の仲間たちは近所の三沢高に行くという。先生たちも意見が二分して、野球が好きな先生は「三沢へ行け」。勉強重視の先生は「八戸だ」と。 迷ったけど、親も体が弱かったので、遠くに通うより、仲間と好きな野球をやるかって。三沢高校に進学しました。東北勢の選抜大会成績2001年 準優勝・仙台育英09年 準優勝・花巻東(岩手)12年 準優勝・光星学院(青森)■太田幸司さん略歴 おおた・こうじ 1952年1月23日生まれ。三沢高3年夏の甲子園決勝で延長18回0―0の引き分け、翌日の再試合を投げ抜き、「甲子園のアイドル」としてフィーバーを起こした。ドラフト1位で近鉄に入団。プロ15年間で58勝を記録、引退後は解説者として活動している。