ストーリー無名だった森保監督を導いた恩師の一喝 組織より大きな「個」はない潮智史印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする【動画】目利きの流儀
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絶え間ないカメラのフラッシュの中央に、サッカー日本代表監督の森保一(もりやすはじめ)はいた。6月11日に開幕するワールドカップ(W杯)北中米大会に臨む26選手の名前を読み上げた。 チームの中心だった三笘薫(ブライトン)や南野拓実(モナコ)の招集は、けがで断念せざるを得なかった。事情を話す時、森保の顔は少しゆがんだ。 強力な個性を欠くのは痛手だ。穴を埋めつつ、どう戦おうとしているのか。 代表監督に就いてまもなく丸8年。2回目の指揮となるW杯を前に、森保の考えは明快だ。 「選手の個性はもちろん認める。その上で、我々はチームとして戦う」。4月のインタビューで、森保は力を込めた。「チームより大きな個は存在しない。それをインプットしてくれたのが、今西さんです」 誇らしげに挙げた人物こそ、指導者・森保の源流と言えよう。サンフレッチェ広島初代総監督の今西和男。この4月、85歳で他界した。Aストーリーズ「目利きの流儀」サッカー日本代表の森保一監督は、ワールドカップにどう挑むのか。その思考をたどると、屈指の目利きである「恩師」の故・今西和男さんに行き着きます。人と組織を成長に導いた今西さんの流儀は、サッカー界に広く影響を残し、同時に現代社会を生きるヒントも映し出します。Jリーグのない時代に 企業チームが社員選手を集めて戦っていたアマチュア時代。今西は、広島の前身である東洋工業(のちのマツダ)でDFとして活躍し、日本代表にも選出された。 「先駆者」として高い評価を得たのは選手引退後のことだ。 現代では当たり前になったゼネラルマネジャー(GM)という役職は当時、存在しなかった。今西は、総監督や強化部長の肩書で、チーム編成や新人獲得などGMの役割をいち早くチームに持ち込み、自らが担った。まだ、プロ化という変革の影も形もない、1980年代初めのことだ。 低迷していたマツダサッカー部の再建を命じられると、84年にのちに日本代表監督になるハンス・オフトをオランダから招いた。当時、外国人指導者に指揮を任せる例はまだ数えるほどしかなかった。 今西は、オフトとの間に明確な線を引いた。 コーチだったオフトには実質…この記事は有料記事です。残り1261文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人潮智史スポーツ部専門・関心分野スポーツ関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする













