ストーリー岩佐友 照屋健印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする
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久保建英(たけふさ)(スペイン・Rソシエダード)が、初めてサッカーの「日本代表」に選ばれたのは、13歳のときだった。 2015年4月、インドネシア・ボゴールで行われた15歳以下(U15)の代表遠征。当時、スペインの名門バルセロナの下部組織に所属していた久保は、1学年上の選手たちに交じって、チームの活動に参加した。 00~01年生まれが中心の「00(ゼロゼロ)世代」と呼ばれた当時のチームを率いていた森山佳郎さん(現ベガルタ仙台監督)には、ある考えがあった。 「ここなら、ちょっと落ち着いて呼べるかな」 久保は10歳でバルセロナの下部組織に入団した。当時から、日本では「天才少年」と騒がれていた。国内の合宿に呼べば、どれだけの報道陣が押し寄せるかわからなかった。 海外なら静かな環境でプレーできるのではないか。森山さんはコーチ陣と話し合ってそう決めたが、合宿が始まると練習場には5台のテレビカメラが待ち構えていた。世界最強追い詰めたサッカー「00世代」 ゆずの「友」と涙の誓い久保を迎えた仲間たち 久保は、森山さんが「鶏ガラスープ」と冗談で呼ぶほど、小柄できゃしゃだった。 だが、技術はぴかいちだった。ミニゲームでは「ハイ! ハイ!」「俺に渡せ」と要求。密集の中でも空いたスペースに自然と顔を出し、パスを受けると抜群のコントロールで前を向き、すぐにドリブルで仕掛けた。 「とにかく俺がやる、俺が打つんだという考え。教えられるものではなかった」と森山さんは振り返る。 久保がチームにすぐになじめたのは、迎え入れてくれた仲間がいたからだ。 代表格がムードメーカーだった菅原由勢(ゆきなり)(ドイツ・ブレーメン)と瀬古歩夢(あゆむ)(フランス・ルアーブル)だった。菅原由勢の原点は17歳のイングランド戦 久保建英らと誓った雪辱 2人は、久保が代表に招集されることを知ってから「来るぞ」と盛り上がっていた。 合宿初日、2人は宿舎で久保の部屋をノックした。耳栓をした久保が出てきて、言った。 「ちわーす」 次の日にはサイクリングに誘った。1学年差の壁はすぐになくなり、久保はため口で仲間と会話するようになった。 瀬古は当時の関係性を、こう説明する。 「僕らは『バルサの久保君』…この記事は有料記事です。残り1219文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人岩佐友スポーツ部専門・関心分野サッカー、バレーボール照屋健スポーツ部専門・関心分野サッカー、五輪関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする










