深掘り「コメの増産タブーに」減反で大会消滅、コシヒカリの地位「異例」に編集委員・大日向寛文印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

[PR]

連載「減反は何をもたらしたのか」③ 八ケ岳のふもとに広がる長野県富士見町の傾斜地の田んぼに、「米作日本一 生産の地」と刻まれた石碑がたたずむ。収穫量を競う全国コンテストを1961、62年と2年連続で制した、小池政之さん夫妻の功績をたたえたものだ。【①から読む】余ったコメ、なぜ輸出しなかったのか 歴史文書から見えた壁と圧力【前回②を読む】昔は安かったコメ 池田勇人「貧乏人は麦を」発言後、逆転した価格差 その収穫量(10アールあたり)は、975キロ(61年)と863キロ(62年)。一方、60年以上も経った2025年産の収穫量の全国平均は573キロにとどまる。農林水産省のコメ研究の担当者は、「コンテストの優勝者ほどの収穫量がある農家は、いまはまずいない」と話す。打ち切られたコンテスト このコンテストは、終戦直後の食糧難の解決が緊急課題だった1949年に始まった。毎年およそ2万人が参加する激戦を勝ち抜こうと、農家はいち早く多収品種を導入し、日本一に輝く品種は、毎年のように入れ替わった。小池さんが61年に採用した「ふ系55号」も、前年に配布が始まった最新品種だった。 小池さんの棚田は、標高約1100メートルの寒冷地で、土壌は火山灰。コメ作りに不向きとみられていた。小池さんの技術を学ぼうと、全国から10万人を超える人が視察に訪れたとされる。 だが、いまでは農地の視察は、「近くの小学校の子どもたちがキャベツを見に来るぐらいになった」と、次女美幸さん(80)は話す。 コンテストは68年で打ち切られた。そのころ、コメ政策は転換点を迎えていた。増産が進む一方、食生活の洋風化で需要は伸び悩み、政府は山積みになる余剰米の処理に苦悶(くもん)していた。翌69年には、生産量を抑えるための減反に踏み切った。 このコンテストの主催者だった朝日新聞は「米作日本一20年史」で打ち切りの理由をこう記している。「『米の増産』に関連することはタブーとみられるにいたった」 減反で消えたのは、コンテストだけではない。大きく低下した単収の地位 品種開発では、多収の研究が…この記事は有料記事です。残り969文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人大日向寛文編集委員|経済政策専門・関心分野財政をはじめとする経済政策全般関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする