インタビュー谷津憲郎印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする

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2009年7月31日付朝刊から(肩書や年齢などは当時) 広島で被爆したのは、5歳の時です。家の前でいつも缶けりをしていた私は、あの朝も、遊びに行こうと玄関を一歩出た。その時でした。まぶしいどころか、空いっぱいがピカッと光ってドーンと。地球が割れたと思いました。張本勲さんが死去 86歳、プロ野球最多の通算3085安打助けてくれたのは、やはり野球 張本勲さん【アーカイブ】 気づくと、お袋の胸に三つ上の姉と抱えられていました。家は6畳一間の長屋。もちろんぺしゃんこです。ただ小高い山の陰にあったおかげで、熱線などに直撃されず助かりました。「逃げなさい」。お袋に言われ、逃げ込んだブドウ畑の形などは、うっすらとしか覚えていません。はっきり記憶にあるのは、人のうめき声です。そして人肉のにおい。叫び声。夜中に誰かが叫びながら走り去る。 6歳上の長姉は、勤労奉仕へ行っていました。色白で背の高い姉はぼくの自慢で、いつも隣に座って食事をしていたそうです。 数日後でしょうか。赤十字の腕章をした人たちに運ばれてきた長姉は、全身ケロイドで、それは無残な姿でした。10歳上の兄貴が「泣くな」と何度も僕に言ったそうです。「熱いよ」「痛いよ」とうめき続ける姉の声が耳に残ります。ブドウ畑から、わずかに残った粒をもいできて、姉の口にあてがいました。 お袋は娘がじわじわと死んで…この記事は有料記事です。残り481文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

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この記事を書いた人谷津憲郎編集委員専門・関心分野沖縄、公文書、社会心理、ことば印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする