(後藤正文の朝からロック)規律に留まる臆病さ、自分にも2026年8月23日 5時00分印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする
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ロックフェスで音楽のリズムに合わせて手を振る観客たちを「マスゲームのようで気味が悪い」と揶揄(やゆ)する人を時々目にする。様々な国でコンサートをしてきたが、観客たちが同期したように手を振る光景は、確かに日本では際立って見える。 どうして私たちはリズムに合わせて一斉に手を振ってしまうのかという話は、社会のあり方に根ざしているのではないかと思う。一体となって手を振る人たちを揶揄した誰かも、音楽をはじめてフェスの大会場を埋めるような人気を得れば、本人がどう望もうが同じような光景が広がるだろう。誰から頼まれたわけでもないのに、私たちは手を振ってしまう。そういう文化や社会を生きている。 良し悪(あ)しは簡単には言えない。日本の街の治安の良さ、ゴミが散乱することなく秩序が保たれている様子には、海外から戻ると感動して、安心する。それはフェスの観客席の風景と地続きではないかと思う。打ち合わせもなく、街の秩序を保つことができる。一方でそれが同調への圧力として現れることもある。調和を望むのではなく、他人の目を気にして行儀作法を守り、規律のなかに留(とど)まる臆病さが自分にもある。 終戦記念日から「きけわだつみのこえ」を再読している。英霊と一言でまとめることのできない、戦没学生たちの手記が胸に迫る。日本人の多くが熱狂する空気のなかで、自分はどんな言葉が綴(つづ)れただろうかと考える。疑問を持つ者を小突き、「非国民だ」と怒鳴りつける役割を担ったのではと自問する。 時代が違えば、軍服を着て、戦地に向かって歩む学徒の列に自分も加わっただろうか。あるいは世間の好戦的なムードに逆らって、拘束されても戦争に反対できただろうか。運動会の組み体操や行進の練習に違和感を抱いていたが、教師に尋ねる勇気も疑問に思う知性もなかった自分に、それができただろうか。(ミュージシャン) ◇毎月第4日曜日に掲載します。有料会員になると会員限定の有料記事もお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする






