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2024年2月、パプアニューギニア。雨期の蒸し暑さがまとわりつく中。海を見下ろす丘の祭壇に向かって叫んだ。 「おとうさーん」 生まれてから一度も呼んだことのない父だった。どうしても呼びかけたいと、増川計さん(87)は日本遺族会の慰霊巡拝に加わった。 父の遺骨は今も戻っていない。戦時中にどこを移動したのか、亡くなったとされる野戦病院がどこにあったのか。よくわからないままだ。なにより「情けない」と感じるのは、父の死の知らせが届いたのが、亡くなって5年もたった後だった、ということだ。 終戦から81年。増川さんは15日、そんな思いを胸に東京・日本武道館で開かれる全国戦没者追悼式に参列する予定だ。生後7か月で 増川さんは1939年、現在の広島市安佐北区にある山あいの集落に生まれた。祖父母と父、母の5人家族だった。父・哲一さんが陸軍に召集されたのは増川さんが生後7カ月の時だった。 父の記憶はない。広島県の宇品港を出たあと、中国やビルマ(現ミャンマー)へと移動したようだ。一度も日本に戻らないまま、45年の夏を迎えたという。 45年8月6日の朝。小学校1年生だった増川さんは、先生に頼まれて友達と野草を採りに出ていた。広島市の中心部からは25キロほど離れた場所だった。旧市内の方向に強烈な光を見た。 その後、雨が降り始めた。急いで家に駆け込んだ。家の白い壁に、黒い雨が線を描くように残っていた。 近くの学校や寺にやけどをした被爆者が運び込まれた。近隣の母親たちがかり出された。近所の年上の子どもたちも手伝いに行き、患者の傷にわいたウジをとって看病したと聞いた。「いかに人間がむごい死に方をしたんだろう」と感じた。 終戦を迎えても、父は戻ってこなかった。家族は待ち続けた。「生きとる。帰ってくる、帰ってくるって待ちよった」。父の消息を知る人がいないかと、必死で尋ね歩く母の後をついて歩いた。「むちゃくちゃなことよね」 父の消息がわかったのは、終…この記事は有料記事です。残り664文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません

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この記事を書いた人奈良美里くらし科学医療部|厚生労働省専門・関心分野人権、福祉、障害関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする