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原爆投下から10年あまりが経った長崎で、当時一冊の本が発行された。犠牲になった長崎純心高等女学校(現・純心中学・純心女子高校)の生徒ら200人余りを記録した「純女学徒隊殉難の記録」だ。学校では今も平和教育に使われ、「宝」として受け継がれている。 そこには初代校長、江角ヤスさん(1899~1980)の思いが詰まっている。 記録によると、1945年8月9日、江角さんは学校でピカッと青白い光を見た。気がついた時は、重くて大きな防火壁の下敷きに。一命は取り留めた。 学校では「純心教育」として愛徳や純潔、謙遜を備えた生徒を育てることに取り組んできた。だが、多くの生徒らが命を失ったことに強い自責の念にかられた。 「もう教壇には立てない」。長崎県に辞職願を出したが、県から「純心は復興する。今こそ純心教育が必要だ」と受け取りを拒否されたという。 江角さんは1946年7月、原爆で犠牲になった生徒の実家がある長崎・五島列島の30軒を慰問した。 被爆後、病床に伏した娘をみとった遺族からは、生徒が「泣き崩れる親を慰め、清らかな最期を遂げた」と聞いた。その言葉に「純心教育は間違っていなかった。学校が復興したら、亡くなった生徒と遺族の喜びになる」と確信したという。 遺族に手記を依頼し、犠牲者名簿の作成にも取りかかった。1961年7月16日、「純女学徒隊殉難の記録」の発行にこぎつけた。生徒の最期の様子や、遺族の思いがつづられた。 県内の海軍病院に入院し、その後亡くなった荒木麗子さん(専攻科)は日が経つごとに悪化していった。心配する母親を「泣かんでもよかとよ。今日はゆっくり休まんね」と気遣ったという。 学徒動員先の工場で即死した井石マサ子さん(専攻科)は8月9日朝、父親から空襲の激しさを理由に「学校を休んでは」と言われたが「重大な責任を負わされた身で、どうして一日でも休めるでしょうか」と語ったという。「神のような精神の前に頭が下がった」と父親は振り返っている。 純心中学・純心女子高校の校長を務める佐古照美さん(58)は「今を生きる子どもたちにとっても、原爆の恐ろしさを知る平和教育の基礎になっている」と話す。 2025年末には、新たに集まった記録などを加えた第6版、399ページが仕上がった。学校では先輩や遺族の思いを読み込み、平和への思いを強くしている。 中学3年の今村舞琳さんは、被爆21日後に亡くなった生徒の母親が寄せた手記を読んだ。母親が「お前の苦しみを代わってあげたい」と語ると、生徒は「いいえお母さん、自分に与えられた十字架はどんなことがあっても天国まで運ばなければならない」と告げ、賛美歌を口ずさみながら眠りについた、という。 自身と同じ年ごろだった生徒が、自身とあまりに違う境遇に置かれたことを知った。「苦しむ娘の身代わりを願いながら、祈る姿を見守るしかできなかった母親の無念さと絶望感はどれほど大きいものだったか」 最後まで家族を思いやり、信仰を心の支えにしていた生徒の清くて美しい心にも胸を打たれたという。