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「働きたくない」「結婚もそこまでしたくはない」――そんな本音を抱えた人が増加する日本の未来はどうなるか。大胆な予測と衝撃的な分析が話題を呼び、発売後たちまち重版となった『働く人が減っていく国でこれから起きること』(朝日新書)。この本を執筆したのが、気鋭のエコノミストの河田皓史(ひろし)さんだ。東京大学経済学部で学び、日本銀行、シンクタンクとキャリアを歩んできた河田さんは、実は「FIRE(早期リタイア)」を真剣に考える30代のひとりでもある。なぜ日銀を去り、そしてFIRE願望を持つに至ったのか。その原点には、少年時代に経験した「ある出来事」があった。(AERA Books 2026年4月27日の記事を再構成して掲載します)父の会社が倒産 経済が「自分ごと」になったのは、小学校高学年の頃だった。1997年、98年にかけて、銀行や証券会社が相次いで破綻(はたん)する、金融危機の真っただ中だった。 その荒波は、当時北海道に住んでいた河田さんの一家も襲った。父親が支店長クラスの役職で勤めていた建設関係の会社が、倒産したのだ。 「食生活が貧しくなったとか、私自身の生活について目に見える影響があったわけではないのですが、家庭内の雰囲気はかなり暗くなったのを感じました」 当時の家庭内の空気をそう振り返る。父親の転職に伴い、一家は岩手県へ転居。この出来事を通じて、心にはひとつの確信が刻まれた。 「経済や社会の動きを分かっていないと、予想外の経済・社会イベントに巻き込まれてひどい目に遭わされるんだな。そのことが教訓のように自分に刷り込まれていったんです」 世の中の変化を先読みできるようになるためには、経済や社会を学ばなければ――この体験が、後の進路を決定づける原体験となった。「行けそうなら」の東大進学 岩手県有数の進学校である盛岡第一高校に進学。文系の中では常にトップクラスの成績だったという。当初は多くの同級生と同じく東北大学への進学を志望していたが、模試での成績が想定以上に良いことを知り、「行けそうなら東大にするか」と志望先を変更した。 当時から経済学に特別な関心があったわけではない。社会科学系を学ぼうと決めていた河田さんだったが、自身の成績と東大の入試難易度との兼ね合いで、経済学部に進む学生が多い文科二類を選択した。 経済学のおもしろさに目覚めたのは大学3年生の時だ。経済学には、個々の経済主体の行動を分析する「ミクロ経済学」と、国全体の経済動向を分析する「マクロ経済学」がある。河田さんが惹(ひ)かれたのは後者だった。 「本当に数学が得意で『数理モデルをいじっているとテンションが上がってくる』ような人はミクロ経済学を好むことが多いのですが、自分はそのようなタイプではありませんでした。マクロ経済学は一国全体の景気や経済成長を考える“手触り感”のある領域で、自分はどちらかというと、現実社会のことを考えたいと感じていました」社会のことを知らなければ 大学で本格的な分析に初めて取り組んだのは、2008年の夏。リーマン・ショックが起こる直前、原油や資源の価格が高騰していた時期だ。 なぜ原油は高騰しているのか。中国やインドなどの新興国はなぜ急成長しているのか。仮説を立て、GDPや為替といった実社会のデータを分析ソフトに取り込み、回帰分析などを通して検証していく。 「このモデルで計算してみようとか、この変数が一番説明力が高いねとか。議論と試行錯誤を重ねることで、社会で起きていることの原因がわかり、おもしろさを感じました」 少年時代の、社会のことを知らなければならないという教訓。現実の経済の分析に惹かれる根底にはそれがあった。日銀は「かっこよく見えた」 2008年9月にリーマン・ブラザーズが経営破綻。その直後の10月から、就職活動が始まった。 当時の東大経済学部には、財務省などの人気官庁、日銀、外資系の金融機関やコンサルティング会社に進むことを「就活成功」とみなすような独特の空気感があったという。河田さんは「激務は避けたい」という理由で官庁と外資を除外。「消去法的に日銀が選択肢として残った」と語る。 しかし、日銀を志望した理由はそれだけではなかった。未曽有の金融危機に対し、FRB(米連邦準備制度理事会)やECB(欧州中央銀行)など各国の中央銀行が、経済の崩壊を防ぐため、矢継ぎ早に異例の政策を打ち出していた。日銀もまた、必死に市場の安定化に奔走していた。 「私が就職活動をしていた時期の日銀は、すごくかっこよく見えたんです。まさに経済・金融を支える“最後の砦(とりで)”として頑張っている姿を見て、ああいう社会的意義のある仕事ができたらいいな、と思っていました」深夜2時に寝て、朝5時に起き… 日銀入行後、河田さんが配属されたのは日本経済のリサーチを担う調査統計局だった。その後、1年半ほどの支店勤務を経て配属された部署は、河田さんが避けようとしていた「激務」の部署だった。 「霞が関や外資と比べればまだ可愛いものだったかもしれませんが、当時は朝7時に出社して終電で帰る毎日でした。三鷹にある独身寮に住んでいたので日本橋の職場まで遠く、深夜2時頃に寝て朝5時頃に起きる、というような生活でしたね。昼も起きているのか寝ているのかわからないような状態でした。 部署によって違うと思いますが、2012年の当時は『働き方改革』も始まっておらず、月100時間近くまで猛烈に残業をしていました。当時そんな言葉はありませんでしたが、今で言う『配属ガチャ』に失敗したような感覚でした。他の同期は現実的な時間に帰って飲み会をやったりしていて、楽しそうでいいなとやさぐれていましたね」 入行2年目の時、行内の海外留学制度の募集に手を挙げた。日銀では総合職の半数以上が海外留学を経験するという。本店の部署には留学帰りの先輩や留学準備中の同僚も多い。ランチタイムには、留学先で著名なエコノミストと会った、中央銀行の幹部と会った、といった体験談が飛び交う。その光景は「それまでの人生で出会ったことのないタイプの人々」であり、「華やかに見えた」という。 平日は仕事に没頭し、週末は疲労と戦いながら英語の勉強と必要書類の作成に時間を費やした。その結果、米国のデューク大学大学院への留学の機会をつかんだ。「バンク・オブ・ジャパン」にリスペクト 当時のデューク大学大学院の経済学修士プログラムは、学生の半分が中国人、4分の1がアメリカ人、残りの4分の1がその他のさまざまな国から集まった人たちで構成されていたという。 中国、アメリカ以外の出身の人々は、河田さんのように各国の会社や役所から派遣されてきたミッドキャリアの社会人も少なくなかった。社会人経験のある人たちとは話も通じやすく、「バンク・オブ・ジャパン」と言えばリスペクトしてくれた。「楽しく過ごせた」と振り返る。 大学院では、新興国の為替介入に関する実証分析をテーマに研究した。学部卒の知識だけでは読むのが大変だった専門的な論文も、その背景にある理論や研究の系譜の理解を深めることで、読み解けるようになった。 こうしてエコノミストとしてのスキルを身に付けた河田さんは、2015年、日銀へと戻る。しかし、日本を離れていた2年の間に、組織の空気は静かに変わっていた。大きな違和感 河田さんが米国に留学していた2013年から15年は、日銀にとって大きな転換期だった。白川方明(まさあき)氏に代わって黒田東彦(はるひこ)氏が総裁に就任し、「異次元の金融緩和」が始まっていた。帰国した頃には、その「黒田体制」が組織にすっかり定着していたという。 「雰囲気の違いを感じました。政府との連携がものすごく重視されるようになり、リサーチにしても、『空気を読む』ことが求められるようになっていると感じました」 もう一つ、大きな違和感を覚えたことがあった。河田さんが留学後に配属されたのは、金融政策の前提となる経済・物価見通しを作成する調査統計局。しかし……。 「こういう政策をやる、という方針が事実上固まっている状態で、それをいかにして正当化していくか、という観点で見通しの数字を考える必要がありました」エコノミストたちの「諦め」 当時の日銀は、「2年で物価上昇率2%」という目標を掲げていた。しかし、現実の物価が思うように上がらない中で、その見通しを正当化するロジックを組み上げるのは、困難を極めた。 「現場で実務をやっている人間からすると、辛かったですね」 この感覚は、河田さんだけのものではなかった。こんなの無理だ、というような会話もあった。しかし、周囲の同僚たちの反応は諦めに近いものだったという。「まあ、仕方ないよね」「そういうもんだから」。言ったところで意見は通らないという空気感があった。 それでも、物価見通しは年4回作らなければならない。「今の物価の弱さは一時的な要因によるもので、それがなくなれば物価は上がっていくはずだ」――。そんな説明を作り上げる日々が続いた。引き留め面談が10回以上 違和感は、日々の働き方そのものにも及んでいった。年次が上がるにつれ、上層部の働きぶりを間近で見る機会が増えた。優秀な人ほどハイプレッシャーな、あるいは長時間の仕事に従事していた。 「立派だなとは思うのですが、40歳や50歳になっても毎日のように深夜まで残業している上司を見ると、それが果たして望ましい人生なのかなと。あまり、ああいう風にはなりたくないなと思っていました」 こうした積み重ねの果てに、2023年、河田さんは日銀を退職する。コロナ禍前まで「離職率の極めて低い組織だった」という日銀。コロナ禍以降、離職者が増えてきたタイミングでの決断だったという。 意向を伝えた時、周囲の反応は「驚いていましたね。『もったいないよ』みたいな感じ」。社内での慰留の面談やヒアリングは10回以上にも及んだという。20代後半で抱いた「FIRE」 日銀を去った河田さんは、シンクタンクのみずほリサーチ&テクノロジーズ(現・みずほ総合研究所〈※みずほ総合研究所はみずほ銀行内の組織の名称〉)に転職。日銀時代と違い、高頻度でのリモートワークが認められるなど、働き方は大きく変わった。 何より大きかったのは、「自由に発信できる」ことだった。 日銀では一つのリポートを対外公表するために、直属の上司、他部署の担当者、時には役員への事前説明など、無数のチェックと根回しが必要だった。そうしたプロセスから解放され、転職直後は月2、3本のペースでリポートを発表していた。「この会社としては結構なハイペース」だという。 「それだけ、エコノミストとしての表現欲求が溜(た)まっていたのだと思います。書きたいテーマがたくさんありました」 河田さんには、20代の終わり頃から抱いていた人生設計がある。それは、「50歳頃までにはFIRE(早期リタイア)する」という目標だ。当時はまだFIREという言葉はなく、「アーリーリタイアしたい」と周囲に話しては、「何を言ってるんだ」という反応をされていたという。 ところがコロナ禍以降、NISAによる資産形成ブームも手伝って、「FIRE」は急速に知られるように。そんな中、転職した河田さんが2024年8月に発表したリポート「単身世帯化の日本経済への影響」は、「FIRE願望を持つ非婚単身者が増加すると、人手不足が加速し、インフレ圧力をもたらす可能性がある」という斬新な未来予測で、SNSで大きな話題を呼んだ。自身もFIRE願望を持つ単身者ゆえの発想だった。 河田さんの仕事には、一つのポリシーがある。「みんなが見たことのないものを見せたい」。誰も注目してこなかったデータを掘り起こし、あるいは見慣れたデータを新しい切り口で分析し、斬新な結果を提示する。どこかで見たような分析ではなく、オリジナリティーを追求する。 日銀の新人時代、先輩たちが作るリサーチを見ては、その視点の鋭さに目を見張った。年次を重ねても、ハードルを越えて新しい発見を提示する人が必ずいた。 「自分もおもしろいと感じてもらえる、いいリサーチを作りたい」 その思いは、あの頃から変わっていない。河田皓史(かわた・ひろし) みずほ総合研究所調査部主席エコノミスト。1987年生まれ。岩手県出身。東京大学経済学部卒。デューク大学大学院経済学修士課程修了(経済学修士)。日本銀行を経て、2023年11月、みずほリサーチ&テクノロジーズ(現・みずほ総合研究所〈※みずほ総合研究所はみずほ銀行内の組織の名称〉)入社。朝日新書『働く人が減っていく国でこれから起きること』FIRE(早期リタイア)ブームと非婚化の影響で増加する単身世帯。その時、人手不足の日本経済はどうなるのか。加速するインフレ圧力の可能性を指摘した衝撃リポートが書籍化! ……あなたは生き残れる?(Amazonのページに飛びます)AERA Books本と言葉を愛する人のために、朝日新聞出版が運営するウェブメディア。紙の本や電子書籍、オーディオブックなど多様な読書体験が広がるなか、幅広いジャンルから「価値ある一冊」との出会いをお届けします。







