「全村流失す」 特派員ルポも 草創期の朝日新聞が伝えた明治の津波石橋英昭印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

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三陸地方を中心に約2万2千人が犠牲になった明治三陸地震津波から、6月15日で130年。近代国家になった日本で、最初に広く国民に知らされた津波(海嘯(かいしょう))災害だった。メディアはどう伝えたのか。岩手県大船渡市立博物館の収蔵資料から、たどってみる。 1896(明治29)年6月15日夜、三陸沿岸部で震度2~3程度の揺れが5分ほど続いた。約30分後に巨大津波が襲来。現在の釜石市で、人口の半数超の6千人あまりが犠牲になった。大船渡市の綾里で津波遡上(そじょう)高38.2メートルを記録するなど、青森県から宮城県にかけて甚大な被害となった。創刊から8年 発災翌々日の1面トップに このとき東京朝日新聞は、創刊から8年。発災翌々日の6月17日付1面トップで、仙台発の電報として「(宮城県の)牡鹿(おしか)本吉(もとよし)二郡に海嘯起(おこ)り家屋の流されたるもの五百余戸、溺死(できし)者千余人」と速報した。釜石、宮古など岩手の地名を挙げ、「同様の被害ありたるならんが本紙締切までには未だその報に接せざりし」とも記した。 18日付で各地の情報が入り始めたほか、地質学者の巨智部忠承(こちべただつね)博士が、三陸沖の海溝の地層が崩落して津波を引き起こした可能性を解説。朝日新聞社が被災者のための義援金を募集するお知らせ記事も載った。 16日に東京を発ち、宮城県志津川町(今の南三陸町)に入った横川勇次特派員の現地ルポ「嘯害地実見記」は、23日付から。記事中に「19日」の日付があり、郵便などで原稿を送ったようだ。「四面は激浪の襲ふ所となりて最先に床下に浸入せし潮水は忽(たちま)ち床板を擡(もた)げ……」と津波襲来時の証言を引き、「町病院を一覧せしに患者は主に潮水を呑みし者及び打撲傷の者にして……」と、生々しく伝えている。生々しい証言「四面は激浪の襲ふ所となりて…」 一連の報道では「海嘯」に「…この記事は有料記事です。残り899文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人石橋英昭盛岡総局員専門・関心分野東日本大震災、在日外国人、戦争の記憶関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする