コラム・寄稿聖徳太子から探る磐余池 謎の古代の池を歴史地理学で考える印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする

[PR]

日本古代史の文献史料にしばしば登場する「磐余(いわれ)池」。6~7世紀の政治史を考える上でも重要な磐余池と聖徳太子の関係について、歴史地理学者の千田稔・県立図書情報館長に解説していただきました。 奈良県内の古代史をめぐっては、「磐余(いわれ)」という地名によく出会います。ただ、意外とその地がどこなのか、あいまいに語られることがあります。今回はこの磐余にあったとみられる「磐余池」について、歴史地理学の手法で考えてみたいと思います。 5世紀初めに在位したとされる履中(りちゅう)天皇は、磐余(いわれ)市磯池(いちしのいけ)で、2艘(そう)の丸木舟をつなぎ合わせて一つの舟とした両枝船(ふたまたぶね)に乗って皇妃(みめ)と遊んだ、と「日本書紀」にあります。 「日本書紀」の履中天皇2年11月条には「磐余池を作る」とありますから、磐余市磯池と磐余池は同じものだと思われます。舟遊びのときに、奈良盆地南西部の現在の奈良県御所市の室(むろ)あたりの山から桜の花が飛んできて天皇の酒杯に落ちたことから、宮殿の名前が磐余(いわれ)稚桜宮(わかさくらのみや)と名付けられたとも書かれています。磐余池はどこにあった? さて、履中天皇が舟遊びした…この記事は有料記事です。残り963文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする