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ニュースを見ていると、米国とイランとの紛争やウクライナ戦争で、無人機のドローンが攻撃目標となった施設に突っ込み、黒煙が上がっている映像を目にすることは多いと思います。こうした自爆型ドローンは、欧米メディアなどからは「カミカゼ・ドローン」と呼ばれることもあります。 確かに、爆弾を搭載した航空機が攻撃目標に体当たり攻撃をする点では同じかもしれません。しかし、実際の日本の神風特攻隊は、生身の人間が航空機に搭乗して必ず死ぬという点で、全く次元の異なるものです。 本日のニュースレターは、沖縄戦における陸軍航空特攻の最大の出撃基地だった知覧から、「十死零生」と言われた特攻作戦が、現代の私たちに何を問いかけるのか考えてみたいと思います。【(Q&A)戦争の時代、日本の平和はどうなる 読者から92の質問、編集委員の答えは #2330】 記者と読者が意見や言葉をかわす取り組みとして、ニュースに関する読者からの質問に答える「Q&A」。初めてとなる今回は「戦争の時代 日本の平和はどうなる~欧州・中東の戦争、台湾問題、安保3文書のゆくえは~」をテーマに、デジタル版記事で質問を募集しました。寄せられた92の質問から、編集委員の園田耕司記者が30問ほどをピックアップ。すぐには出せない解を、みなさまの声と一緒にさがしました。航空特攻で約4千人が戦死 神風特攻隊は、太平洋戦争末期の1944年10月のフィリピン・レイテ沖海戦で始まった日本軍の特攻作戦に由来します。特攻作戦全体をめぐっては、フィリピン戦や沖縄戦で航空機による体当たり攻撃の航空特攻が行われたほか、人間魚雷「回天」、特攻艇「震洋」なども投入されました。航空特攻だけでも陸海軍合わせて約4千人が戦死したとされます。 鹿児島県・知覧には当時、本土最南端の陸軍特攻基地があり、満州や日本の内地から集結した若者たちが沖縄へと出撃していきました。 現在、跡地には知覧特攻平和会館が建てられています。私の訪れた日も大勢の人たちが会館を訪れ、館内に展示された遺書などを熱心に見入っていました。 平和会館の八巻聡学芸員によると、沖縄戦の航空特攻では1036人が戦死し、平均年齢は21.6歳だったそうです。出撃命令は前日夕方に隊員たちに伝えられることが多く、翌日早朝の出撃までの短い時間を隊員たちは基地内の三角兵舎と呼ばれる宿舎で過ごしました。ここで隊員たちは家族あてに遺書を書いたりしたそうです。沖縄への飛行時間、特攻隊員たちの思いとは 知覧から米艦隊が集結する沖縄までは約650キロの距離があり、飛行時間は2時間~2時間半かかりました。出撃した隊員たちは、米軍が制空権を握る空域へと入り、米戦闘機による迎撃や米艦隊の集中砲火の弾幕をかいくぐって攻撃目標まで飛行する必要があります。こうした極めて過酷な環境のもと、知覧から出撃した特攻機が米艦艇に突入できたのは、八巻氏によると1割ほどだったそうです。 特攻作戦は、兵士の生還を想定していません。出撃した隊員たちは飛行中、どんな心境だったのでしょうか。 八巻氏がこれまで全国各地で尽力して証言を集めた関係者の一人に、数少ない生還した元特攻隊員の島田昌往氏がいます。島田氏は八巻氏のインタビューに、操縦桿(そうじゅうかん)を握りしめる中で考えていたのは、家族のことだったと証言しています。「(飛行時間の)2時間半って長い。やはり考え出すのは、お父さんやお母さん、兄弟と遊んだりけんかしたりしたことで、結局、戦友のことはほとんど(考え)なかった」 そして、無意識に大声で家族のことを叫んでいたそうです。「(飛行機の)爆音に負けないものすごい大きな声で『お母さん』って大きな声を上げて涙がぼろぼろ出てきて、おそらく最後のお別れを言いたくて言ったのだろう」 島田氏はその後、機体のトラブルで徳之島に不時着して生還し、熊本県で次の出撃機会を待っている間に終戦を迎えました。 平和会館内の若い隊員たちの遺書は、その多くに自分を育ててくれた両親ら家族への深い愛と感謝の気持ちが込められています。同時に「必ず敵艦を沈めて国を護(まも)る」という趣旨の表現も随所に出てきます。 私はそこに、若者たちの苦悩と葛藤を感じます。若くして自らの命を断ちきらなければいけないという自分ではどうしようもない極限状態のもと、自分の犠牲は家族や国を守ることにつながると自らに言い聞かせ、自身が死ぬことの意義を見いだそうとしていたようにも思えます。戦死した特攻隊員たちに粛然とした思いを抱きます。国家の戦争指導の責任 けれども、戦死した若者たちの国や家族に対する純粋な思いと、特攻作戦を推進した国家の責任は厳密にわけて考える必要があると考えています。特攻作戦を主導した一人、大西瀧治郎中将でさえ当初は、特攻作戦は兵士の生還手段が全くない「十死零生」の作戦であることから、「統率の外道」と慎重な姿勢を取っていました。しかし、帝国日本は米国の圧倒的な戦力を前に相次ぐ敗北を重ね、熟練パイロットや航空機を失ったことから軍部は組織として特攻作戦を遂行しました。だが、フィリピン戦、沖縄戦ともに戦況は覆ることはありませんでした。 毎日新聞学芸部専門記者の栗…






